奈良日日新聞連載小説
嶋左近−大和の風−
作:此花さくや


第1話 筒井順昭

   1
 鳥の声、草の香り、輝かしい夏がやってこようとしている。頬に当たる風が爽やかな緑の香りを放つようになった。芽吹きの気配があちらこちらから立ち昇る。
 盲目の僧侶は静かに耳を澄ましていた。ここで休もうと言って、彼を連れてきた男たちがござを敷いてくつろぎはじめている。僧侶とはいえ、この男たちとこうして座をともにできるような身分ではない。だが同行の貴人に気に入られ、ときおり琴を弾き無聊を慰めた。
 その流れで、警護の者に守られたもう一人の僧侶とともに、総勢十二名ほどの集団が、物見でもなく遠出につきあわされている。先頭に立つ僧侶は、僧侶というより武人のような物腰であった。
「たたみこも平群の山、と遠い昔、倭建命(やまとたけるのみこと)が詠んだいうが」
 おっとりと貴人が言った。
「何度見てもなだらかな山だな。このあたりで使われるこもを敷いたような山、と言う意味らしいぞ」
「申し訳ございません、わたくしは見えませぬゆえ平群の山がどのような山がわかりませぬ。こもは触れたことがございますが……」
「そうであったな」
 貴人はさらりと裾を鳴らして側に座った。
「背後の峠は十三峠、ワラビが旨いらしい。ここからまっすぐ下りると大きな川が流れている。下流に行くと紅葉で有名な竜田川になるのだ。そして正面の松尾山(まつおやま)を越えた先に、我らが筒井がある」
「松尾山……ああ、ではその山のふもとに島友之殿のお屋敷があるのでございますか」
「そうだ。松尾山には、天武天皇の皇子舎人親王(とねりしんのう)が、厄除けと日本書紀編纂の完成を祈願して建立したと伝わる松尾寺(まつおでら)があるぞ。遠く、都人でさえ厄年には祈願に来ると聞いた」
 うーん、と貴人は自分の観光案内に悦に入る。
「右手の小高い丘には島豊前守清国(しま・ぶぜんのかみ・きよくに)の城、西宮城がある。清国殿は竜田の西側を治めているが、筒井の屋敷につめて平等寺の館を空けがちの島に平群谷一帯をまかされている。しかし最近力をつけすぎているらしいがな……」
 しばらく貴人は黙っていたが、かすかに咳き込んだ。
「お屋形様、おかげんが」
「いい。大丈夫だ。そうそう人を病人扱いしないでくれ」
「しかし……」
 貴人の付き人は暗い声だ。
「比叡山で御仏(みほとけ)のもとで修行なさりたいところを、島様や山田様がご無理を申してまた現世へお呼び戻されたからこんなことに」
「気にするな。私にはここしかないということなのだろうよ」
「お屋形様……」


   2
「せっかく苦労して琴を持ってこさせたのだから、一曲弾いてくれないか?」
 青年は朗らかに言った。
 誰かが馬にくくりつけて持って来たのだろう、目の前に置かれる音がする。手を取られて引かれると、琴の絃に触れた。
「あまり風に当たられますとお体に障ります」
 僧侶は絃に手をかけながらも、心配になって尋ねた。本当はこんな外でのんびりしていられるような体調ではない。
「そなたも病人扱いか? まったく……」
 青年は呆れたようだった。
「琴を聞かせてくれれば治る。早う弾いてくれ」
 僧侶は絃を弾いた。
 彼の声は悟りに近い。現世に身を置いても比叡山(ひえいざん)で修行しているのと同じではないだろうか。僧侶は考える。今この瞬間にも痛みと戦い、身内を守り、未来を憂えている。静かながら鋼のような闘志、苛烈な武将でありながら、琴の音を愛し、己のようなものを伴って城から抜け出す。
 まるで己の命の限界を試しているかのようだ。
「私の命も長くはない」
 ほつりと言った言葉に、絃を鳴らす指が止まった。
「自分のことはわかる。比叡山に行こうとしたのも、己の命の期限が訪れたことに気づいたからだ」
「そんな……まだ、お屋形様には」
「慰めは必要ない。いや確かに慰めてもらえば嬉しくはあるが、現状を打ち破ることにはならぬからな」
 突然、伴の者が叫んだ。
「誰だ!」
「出て来い。出て来ぬなら槍で突くぞ」
「……くそっ、失敗した……」
 止める間もなく山の静けさを乱すように近習の一人が大声を出した。茂みから子どもが飛び出したのだ。厳しく誰何(すいか)されたというのに、怯えることもなく少年は軽く腰を落として持っていた木刀を構えたらしい。
「何ものだ? 正直に言え!」
「お前たちこそ誰だ! 坊主がふたり、怖そうなのがこんなにも! ……平群谷のものではないようだし、何で余所者がこんなとこで琴なんか弾いてるんだ?」
「小僧痛い目を見るぞ。その木刀を置け。どうせ誰も斬れやしないのだから無駄なことはするな」
 護衛の声が荒いが、青年は面白がっているようだ。
「よい。童(わらわ)ではないか。それに肝が据わっている」
「童ではない! もう十歳になった!」
 少年はじろじろと一団を見遣った。
「ほほう。十歳にしては大きいな」
 青年は感心している。
「体つきもがっちりとしている。十四、五と言ってもわからぬだろう。よく鍛えられているようだな。お前名前は?」
「島豊前守(ぶぜんのかみ)清国が嫡男、新吉だ!」


   3
「ほう……」
 青年の声色がわずかに変わった。僧侶も先ほどの青年の解説を思い出した。島友之と島清国……。
「新吉といえば、元は島友之の息子だな。清国殿には跡取りがおらず請うて養子にしたと聞いている。お前がその新吉か」
「童だと思って無礼じゃないか。こっちはちゃあんと名乗ったんだ。そっちも名乗るべきだぞ。それに頭巾を取れ!」
「おお、これは失礼をした。よし、これで顔が見えるだろう」
 風で冷えないよう被っていた頭と顔の覆いを取ったのだろう、さらりと布の擦れる音がした。しかし名乗る前に少年は驚いたような声を上げた。
「ん? あれ? あんた達そっくりだな!」
「……何を申す。そんな畏れ多い」
「ふふ。実は私もそう思っていたのだよ。お前たちはどうだ?」
「……衣を調えれば似ていないこともありませぬが……」
「似てませぬ!」
 意見が分かれるのは当然だ。
「私は栄舜房(えいしゅんぼう)だ、新吉。筒井順昭(つついじゅんしょう)と呼ぶものもいる。よしなに」
 可哀想に、少年は息もできないほど驚いたのだろう。木刀が草の上に落ちた、音がした。

 天文(てんぶん)十八年、西暦一八四九年、種子島にポルトガル船が漂着し、鉄砲が伝来してから六年後、織田信長が家督を継ぐ年より約二年前、後に戦国時代と呼ばれるこのとき、大和は小康状態にあった。
 筒井順昭は天文四年七月に十三歳で家督をついでいらい、一時窮地に陥っていた筒井氏の勢力を盛り返した名将である。十三年四月にはかねてから対立していた柳生氏を小柳生城に攻め、十五年十月には宿敵・越智家頼(おち・いえより)の拠る貝吹城を落とし、大和をほぼ制圧した。
 そして今年、順昭に待望の和子(わこ)が生まれた。これが幼名藤勝(ふじかつ)、のちの陽舜房順慶(ようしゅんぼう・じゅんけい)である。しかし順昭は突然生まれたばかりの藤勝に家督を譲って比叡山に遁世した。当然家臣たちは大騒ぎとなり戻るよう説得し、とりあえず順昭は家臣たちの願いを受け入れて戻ってきた。
 少年の養父である島豊前守清国の、本家の当主である島友之が仕えているのが、この青年であった。
「あああああああの」
 どさっと少年がひれ伏した。
「なんだ?」
「申し訳ございません! 俺、俺、本当に」
「だがお前は面白いことを言ったな」
 青年は静かに笑った。
「私と黙阿弥がそんなに似ているか?」
「いえ、まったく、似ていません!」
「嘘はいけないよ。衣を替えれば私も黙阿弥になれるか?」


   4
「そんな、殿様と御坊さまはまったく違う方ですし……」
 少年は困っているようだった。黙阿弥は口を挟むわけにもいかず、少し面白がっている順昭の顔を想像した。自分の顔も知らぬのだが想像などできるわけがないが。
 頭に何かを被せられた。上質の絹の感触が心地よい。
「ふむ」
 次いで、肩に。
「ふむふむ」
「お屋形様! 上着をお脱ぎにならないでください! お体が冷えます!」
 近習のものが騒いでいるのにも、順昭はおかまいなしだ。皺を整えているように布地が引っ張られる。
「どうだ、新吉。似ているか? 正直に申してみよ」
「は……」
 顔を上げたのか声が明瞭になる。
「おそれながら」
 少しためらって、言葉を継いだ。
「そっくりというわけではありませんが、御簾越しなら間違えると思います。俺なら間違えて殿様だと思ってしまいます」
 物怖じしない童だ。黙阿弥は肩にも頭にも順昭の着物を着せられながら、わずかに感嘆する。もしかしたら、この子は……。
「まあ、いいだろう」
「お屋形様、お体に障ります!」
 近習は上着を黙阿弥から剥ぎ取って順昭に着せ掛けた。
「新吉」
 さらりと袖を通しながら声をかける。
「あと数年で元服だな」
「はい」
「その時にはもう……いや」
 順昭は軽く咳払いした。少しだけ声が明るくなっていた。
「私は島の館にいる。明日、遊びに来い」
「えええ!」
「嫌か?」
「い、いえ、参上つかまつります!」
「琴を弾いてきかせよう。この黙阿弥よりは劣るがな。このものは目が見えぬというのに、複雑な曲をいとも簡単に弾くからのう……」
「滅相もございません」
 黙阿弥は慌てて頭を下げた。琴における彼の師ということになっているが、ほとんど教えることはない。
 しかし新吉の声は楽しそうに弾んでいる。
「ありがとうございます! 必ず参ります!」
「さて、我々はそろそろ島の館へ参るか。向いに見えておっても、橋のあるところまでこの川をぐるりと回らねばならぬ。友之も首を長くして待っておるだろう。ではな、新吉」
 順昭はにこやかに言った。誰の心でも掴むのが得意な人であった。


   5
「ようこそお越しくださいましたお屋形様」
 無骨な、しかし理知的な声が出迎えた。
「おお、島、突然すまぬな。三日ほど世話になるぞ」
「いえ、それがしも久しぶりに自分の城に戻ってきましたゆえ、城の者にとっては同じようなものです。どうぞこちらへ」
 磨かれた樫の木で作られた廊下を進む。
 島氏の一族は西宮城や平等寺館(びょうどうじやかた)、上庄北城(かみしょうきたじろ)などに居を構えていた。応仁の乱以前から興福寺一乗院方の国民として、一乗院方衆徒(しゅと)である筒井氏と行動を共にしてきたが、平群谷は大和の西端にあるため、河内国の畠山氏の影響を受けやすく、何度か平群谷から追い出されていた。
「散歩はいかがでございましたか」
「琴のような重いものを持たせて少し馬が可哀想であったな。だが風が気持ちよく琴の音は素晴らしかった。景色も良い。そなたも頻繁に帰ったらどうだ」
「隠居すればここにこもることにいたしましょう。ですが、今はまだ」
「もったいないのう。確かに筒井は良いところだが……おおそうだ。そなたの息子に会うたぞ」
 順昭は楽しそうに言って上座に座った。
「は、しかし息子は筒井城に」
「ああ、嫡男ではない。清国殿のところにいる新吉だ」
「はあ……このかた会っておりませんので……。ご無礼を働いておらぬならよいのですが」
 養子に出したもののことについていきなり話題にされてもどう反応すればいいのかわからないのか島は曖昧な返事をする。順昭はかすかに笑った。
「怒鳴りつけられたぞ」
「ええ!」
「そのうえ斬られそうになったわ」
 さすがに豪胆な島も声を失ったようだった。
「も、申し訳ありませぬ……」
 あまり見られないだろう縮こまっている島に、順昭はくくくと喉で笑った。
「そちでも冷や汗をかくことがあるのだな。責めているのではない。あの童は我々のような不審者を見つけて、一歩も引かぬかまえであった。鍛えれば良い武将になるだろう。豪胆で機転がきく。ぜひ筒井家を盛り立ててもらいたいものよ」
「……ありがたきお言葉、恐悦至極にございます」
 彼は複雑そうな声だ。
「しかしあれは清国殿の跡継ぎだな。こちらには来ぬか……惜しいことよ」
「お屋形様のご命令であれば、筒井に住まわせましょう」
「清国殿に借りを作ることになるだろうがな」
「借り? いいえ。良い頃合なのでしょう。こちらはお任せください」
 島は声を低めた。どこか脅すような迫力があった。


   6
「あの童、年は十歳になったと言っていたな」
「そうでございますな。それくらいにはなっていたでしょう」
「わが子、藤勝の守りにちょうど良い年頃だろう。四、五年もすれば達者に剣を握るようになる。さすれば相手が必要となろうからな。藤勝は親に似て線が細い。幼きころに父が去ってしまっても、無事に筒井家の当主をつとめられるか案じられてならぬ」
「お屋形様……」
 喉を詰まらせたように黙り、島は静かに言った。
「それがしがおります。お方様の兄上であられる山田殿も、また松蔵殿もおられます。我らが必ず和子様を盛り立てていきますゆえ、ご案じめされますな。お屋形様はどうかご養生くださいませ。わしはまだまだお屋形様にお仕えしとうございまする」
「……そうだな」
 順昭はゆっくりとかみしめるように答えた。
「藤勝の行く末を見守ってやりたい。すべきことは沢山ある。さてそろそろ酒でも飲もうではないか。黙阿弥、そなたも相手してくれ」
「かしこまりました」
「島、ワラビを出してくれ。美味いのだろう?」
「すでに手配済みでございまする」
「秋にも来て、次はマツタケを食べたいものよのう」

 夜はとっぷりと更け、床の軋みさえ響く静けさが広がっていた。島友之は先ほど自室へ引き上げたが、黙阿弥は黙って影のように順昭に付き添っていた。深夜の語らいに酒は欠かせない。順昭は死期を悟って以来めっきりと量が増えていた。
「今宵は良い月だ。新吉の笑顔のような半月だぞ」
「それはなかなか可愛らしゅうございますね。随分とあの童をお気に召したようですが、順昭様の目にどのように映っておられるのか知りとうございます」
「私の方が気になるのう。そなたの耳にはどうに響いたのか」
「元気の良い、芯のある童だということと」
「それから?」
「温かい熱が彼から感じられました。長く当たっていると、心の中にあるじめじめした悪いものが乾いていきそうです」
「雨の時、衣服を乾かすのに良いな」
 軽やかに冗談を言うが心配げに息をついた。
「新吉は、味方を多く作るだろうが、敵もつくるだろう。強く正しいものはときにひどく御しがたい。彼のようなものを藤勝が扱えるかどうか……」
「まだまだ幼のうございます。お方様はとても愛情深く育てておられると聞き及んでおります。柳のようにしなやかな武人となられましょう。なればこそ、新吉殿ではなく藤勝様が、上に立つお方なのではないでしょうか」
「子がなければないで、あればあるで、悩みは尽きぬものよのう……」


   7
「そなたはどう思う?」
 杯を置いて、順昭が尋ねた。
「今の大和は不安定だ。とりあえず従ってはおるが柳生と越智はいつ離反するかわからぬ。山のむこうは畠山家が蛇のように睨んでおる。摂津には三好が台頭しはじめた。私の跡を継ぐには息子はまだまだ幼い。隙を見せれば外からも内からも滅ぼそうとするものが出てくるだろう。何か良い計略はないものか……。知恵を貸せ」
 ふうっと声から力が抜ける。
「このようなわずらわしさから抜け出して、己の死のみを見つめるために出家して比叡山に登ったのだがな」
「順昭様……」
 黙阿弥はそっと首を振った。
「順昭様が柳生氏をお討ちになったとき、わたくしは小柳生(こやぎゅう)で戦火に巻き込まれ、のがれてきた百姓たちの世話をしたことがございます。坊主ならば誰でもよいとばかりに目の見えぬわたくしにすがってきたのです。広く火傷を負ったものが早うに死にたいと泣き、腕を落とされた若者がまだ死にたくないと泣き、どちらも息が消えていくのを何もできずただ額を撫でておりました」
 手のひらをそっと宙にかざす。感覚が蘇るようだった。
「目の見えぬわたくしにとって、この乱世ではこの世もあの世も、幕一枚で隔てた同じ世にございまする。ですがこの世でできることがあり、その幕の向こうより来いと望まれぬ限り、眼(まなこ)を失おうと、骨肉を裂かれようと御仏の御世に参るわけにはまいりませぬ」
「――ああ、そうだな」
 順昭は後悔したようにため息をついた。
「すまぬ。繰言だった忘れてくれ。そなたの言うとおりだ。お山から戻り、このような命ゆえ、命ある限り筒井の家を守ると決めたからには、私は考えねばならぬ。……そなたの力を借りたい」
「はい」
「そんなに簡単に頷くな。そなたでなければならぬ。しかし酷なことを頼むつもりでおるのだぞ」
「水臭うございまする」
 黙阿弥はくすりと笑った。
「申し上げましたはず。この世でできることがあれば為せるよう努めます。それに恐らく私の考えは順昭様と同じ」
 順昭はふたたびため息をついた。
「死にとうないな」
 穏やかではあったが、深い悲しみがある。
「幼い藤勝と大和の平穏を、筒井だけでなくこの平群の民の暮らしや、あの向こう見ずな童を守るべき仕事が残っている。どうにかして私の死を引き伸ばしたい。すぐ後に来る大きな嵐を耐えられるだけの時間を手に入れられるのなら」
 ぎり、と歯をかみ締める音がした。
「鬼と言われようとも」



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