奈良日日新聞連載小説
嶋左近−大和の風−
作:此花さくや


第2話 継がれるもの

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 早朝、というよりは少し遅い時間、島友之の館に泊まりに来ていた筒井順昭の元に、館の主が挨拶にやってきた。順昭は大和一帯を支配する筒井家の当主である。彼は供回りの者と、盲目の僧侶である黙阿弥を連れて昨日島の館のある平群谷へとやってきた。
 島が朝の挨拶に参上したとき、すでに黙阿弥は支度を終えて側にひかえていたが、順昭は少し調子が悪そうな様子で白湯を飲んでいた。
「おはようございます。お加減が悪そうに見受けられまするが、またどこか痛まれるのでしたら薬師(くすし)を呼びましょうか。必要なものがございますか」
 ひどく心配げな島の言葉に、順昭はけだるげに答えた。
「ああ、昨夜は飲みすぎた……」
「お屋形様……」
 呆れたようにため息をつく。
「それがしが引き上げてからも飲み続けておられたのでしょう。黙阿弥、そなたがついていながら」
「申し訳ございませぬ」
 黙阿弥は神妙に頭を下げた。
「これが悪いわけではない。羽目を外しすぎただけだ」
「ご自分で止められないお屋形様をお止めするのがそなたの役目ではないか」
「もうよい、何の用だ」
 額を押えながら順昭が先を促す。島は軽く咳払いをした。
「新吉が来ております。菓子を与えて待たせておりますが、いつごろお呼びいたしましょう」
「子どもは朝が早いな」
 島は物言いたげにしたが、懸命にも黙った。黙阿弥はその気配を察知したように、間に入った。
「わたくしが相手をしていましょうか」
「すまぬな、黙阿弥。よし。新吉にはイノシシ狩りに行こうと伝えておいてくれ」
「お屋形様!」
 子どものように楽しそうにするのを、島は低く叱咤した。
「そう怖い声を出すな。狩りくらいはいいだろう」
「いけませぬ。お屋形様は出家の身、無益な殺生は禁じられております!」
「狩りをするのは新吉だ。私ではない。ならばいいだろう? そなたは犬を探しておいてくれ」
「犬ならばそれがしの狩り用のをお使いくださりませ。しかしあまり激しく動かれますと……」
「無理はせぬ。約束する」
「……わかり申した。ではそれがしも同行いたします」
「お目付け付きか」
 いくぶんうんざりとした様子だったが、順昭は諦めたようだった。
「まあよい。腕が立つものは何人いても良いからな。よし準備をしてくれ」


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 黙阿弥が小姓に手を引かれて控えの間に案内されたとき、新吉はなにやらカリカリ食べているところだった。導かれるままに座り、気配の方へ顔を向けた。
「美味しそうな物を召し上がっていらっしゃいますね」
「あ、カキ餅をいただきました! えーっと、御坊(ごぼう)様はお琴を弾いていらした方ですよね」
 名を呼びにくそうにしているのを、助け舟を出す。
「わたくしは黙阿弥と申すものです」
「そうだ、黙阿弥様。殿様は本当に琴を聞かせてくださるのでしょうか」
「イノシシ狩りに行こう、とおおせでしたよ」
「まことでございますか! やった!」
 喜ぶが、さっと気の毒そうに声を低める。
「御坊様は行かれ……ない……よね」
 黙阿弥は思わず笑いそうになった。気を遣っているのだ。
「残念ではございますが、わたくしはここでお待ちしております。存分に楽しんでいらっしゃいませ」
「あ、うん。……がんばってまいります」
「お怪我のないように。無事のお帰りを楽しみにお待ちしておりまする」
「御坊様の指……」
 新吉はそろっと寄ってきて、黙阿弥の前に座った。
「たこがある」
「何度も弦を押えますゆえ」
「御坊様は、どうして筒井の殿様にお琴を弾いているの?」
「あのお方は豪快で華やかでいらっしゃるが、身のうちに寂しさをお持ちです。わたくしはそれを琴を弾くことによってお慰めしようとしているのです」
「寂しさ? ……ふーん」
 よくわからない、という相槌の打ち方に黙阿弥は微笑した。
「新吉殿もいずれおわかりになられるでしょう。本当はわかられない方が良いことかもしれませぬが」
「そんなことはございませぬ!」
 子ども扱いされて彼は腹を立てたようだ。
「何であっても知らないより知るほうがいいのではないかと思います。そこからもっと強くなれるから」
「ああ、本当に。順昭様がおっしゃった通りですね」
「え? 殿様が俺のことを? な、何て?」
「直接お聞きになればよろしいかと」
「そんな……そんな畏れ多い……」
 別人のように恥じ入っている。
「あんな、お城に住まわれる方に、お声をかけていただけるだけで足が震えます」
「それはずいぶん弱気なお言葉でございますね。狩りへは参られますか? お断りいたしましょうか」
「行く! 参ります!」
 慌てて否定する。
「昨日は眠れなかったんです。追い返さないでください」


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 正午を大きく過ぎる頃、順昭と新吉、そして島とその配下たちが狩りから帰ってきた。順昭は戻ってくるとすぐに島友之とともに酒を飲み始め、その席に新吉と黙阿弥が呼ばれた。
 新吉は弾んだ声で黙阿弥を迎えたので、彼は微笑した。
「とても楽しかったようですね」
「はい! 殿様が一匹仕留められましたよ!」
「誤解なきよう申すが、仕留めようとしたくてしたのではない。流れでそうなってしまっただけだ」
 順昭が釘を刺してくるが、嬉しそうだ。
「イノシシが途中で暴走したのですよ! 犬に追い立てられて体の大きな一匹のイノシシが殿様のおられるところに突っ込んできたのです。殿様は馬に乗られていたのですが、ひらりと降りて、お一言、『手出しは無用じゃ!』」
 手振りをしているのか空を切る音がする。
「お側の方から木刀を受け取り、ばっと構えておられたんです。イノシシは真っ直ぐやってくるのに、微動だにせず、じっと待たれていたのですよ! どきっとするくらいぎりぎりまで引きつけて、こう、かわして」
 ひゅん、と手を振り下ろす。
「首筋に一撃! さすがの大イノシシもひとたまりもありませんでした。あのままでしたら怪我人が出たことでしょう。さすが殿様です!」
「おめでとう、存じます」
「私の無事を祝ってくれるのか? ありがたいことだ」
「お屋形様を危険にさらしたと山田殿に知られたら、わしこそ木刀で一撃じゃ」
 友之はげんなりしたようすだ。
「俺、殿様みたいになりたいです。もっともっと強くなりたい。たくさん稽古をすれば強くなれますか? 俺、どんな稽古でもします」
 改まった新吉の物言いに、順昭は静かに笑った。
「私みたいにか、嬉しいことを言ってくれる。のう、新吉、筒井に来て私に仕えるな?」
「はい!」
「私と同じように息子にも仕えてくれるな?」
「もちろんのことでございます!」
「よく体と心を鍛えるのだ。きっと強い武将になるだろう」
「ありがとうございます」
「お前が大人になるのが楽しみだ。そのときにはこの大和の勢力図はどうなっていることやら……」
 新吉が無邪気に喜んでいる。だが彼は知らない。順昭が重い病におかされていて、長くは生きられないということを。彼が順昭に仕えることはないということを。その曇りない崇拝を利用して、彼は息子である藤勝に新吉をつなぎとめようとしている。
 黙阿弥は、しかし止めることはできなかった。形振りかまわない順昭の気持ちが痛いほど伝わってくるからだ。彼はそばにいることしかできない。ただ、そこにいることしか。


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 島の平等寺館にもう一泊して、順昭は供回りの者たちと黙阿弥、そして島友之とともに筒井の城へと戻った。
 留守を預かっていた山田道安(やまだ・どうあん)が、外を見張らせていた者から順昭の帰還を知り、城の虎口まで出迎えていた。道安は順昭の妻の兄で、順昭も信頼を寄せる一族の重鎮である。筒井城から東へ四里半ほどの、山の奥にある山田城を居城としていた。
「留守中、変わったことは? 義兄上」
 廊下を歩きながら、山田道安が背後に従った。黙阿弥はさらに後からゆっくりとついていく。
「山田城にできるかぎりお帰ししたいが……」
「それがしのいるところはお屋形様のおられるところ。こちらには妹もおりますので我家と同じです」
「そうか。すまぬな。後ほど藤勝にも会うてやってくれ」
「ありがとうございます」
 手を引かれて、黙阿弥は廊下に座らされた。しかし耳が良いため会話は漏れ聞える。
「留守の間は特に何事も。ひとつお耳に入れておきたいことがありますが。ただお屋形様がご無事で戻られるかひやひやいたしました」
「平群などそれほど遠くでもないだろう」
「目の見えぬ黙阿弥殿を連れて、供もわずかでは、いくらお屋形様の腕が立つといえども不安でしかたありませぬ」
「ああ、わかった。わかったから」
「島殿の屋敷はいかがでしたでしょうか」
「おお、息子に会うたぞ。なかなか面白いやつだった」
「まだ蛇になるか竜になるかわからぬ小童ではありませぬか」
 山田道安は不満そうに鼻を鳴らした。
「家督を継いだときの私も同じことを言われたぞ。――ああ、白湯をくれ」
「そういえば山田殿、近頃絵を描かれておられるらしいな。わしにも何か描いてくれぬか。姿絵でもいいぞ」
 どさりと島友之は道安の前に座った。
「……猫か鍾馗(しょうき)なら」
「邪気を祓う鍾馗ならわかるがなぜ猫なのだ! そこもとの趣味はわからぬのう」
 友之はおかしそうに笑った。
「猫の何が悪い」
「虎とか鯉とかではないのか。くくく。ではその猫を描いていただけぬものか」
「ごめんこうむる!」
「そう怒るな。わしが悪かった」
 ヘソを曲げられてはかなわないとばかりに、友之がなだめるような声色になった。
「猫は好きだ。そこもとの絵が見てみたい」
「……考えておこう」
「白湯でございます」
 順昭は黙っていたが、白湯をあおると友之に向かった。


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「ところで耳に入れておきたいこととは」
 順昭の言葉に、はっと山田道安は声を改めた。
「信貴山城の跡地に興味を示している者がおるようです」
「信貴山城? 木沢長政が河内太平寺で討死にし、落城してからは廃墟だぞ」
「見知らぬものが探りに来ているとの報告がありましたゆえ、誰かが城を築こうとしているのは間違いないかと」
「誰か、な。もしや松永久秀ではないか?」
 順昭は苦々しげに言った。
「三好長慶殿の側近として重用されているが、己の城はまだ持っておらぬ。やつはいずれ三好から独立したいはずだ」
「信貴山は河内と大和の国境を南北に走る生駒山地の南端にありますからなあ。大和攻略の拠点にするつもりでしょう」
 山田の声にも苦渋が混ざる。
「厄介な男に目をつけられたものだ」
 気を取り直すように、順昭はぱちんと扇を鳴らした。
「できるかぎりの手は打つ。あれこれ考えても詮無きことよ。さて、藤勝の顔が見たくなった。義兄上、共に来られるか?」
「お伴つかまつります」
「……っ」
 立ち上がろうとした順昭は喉に何かを詰まらせた。二、三度鋭く咳き込むとごぽっと吐き出す。畳に、大量の液体が滴り落ちる音がした。
「な……!」
 ふたりとも、咄嗟に動くことができなかった。
「お屋形様!」
「なんということだ……なんということに、島殿!」
 狼狽するふたりの重臣を、順昭はかすれた声で制した。
「島のせいではない、義兄上。もうずっとこんな感じだったのだ」
「ああしかしお屋形様……」
「ほっとして気が抜けたからだろうな」
 苦笑を含んだ声色だった。
「あまり大げさにするな」
「まずはお体を楽になさりませ。誰か!」
「山田殿!」
 島友之は鋭く止めた。ふすまの閉まる音がする。
「山田殿、それがしの責任だ。お屋形様のお体であるのにまるで気づかなんだ。責めは負う。だから聞いてくだされ」
「島殿、今はそんなことを……早く誰ぞを」
「冷静になられよ! 最も信頼のできる者のみに知らせねばなりませぬ。お屋形様が血をお吐きになったなど近隣諸国に伝わってみよ、たちどころに筒井家は滅ぼされてしまうぞ」
「……あいわかった」
「もはやこれまで、ということか」
 ほつりと順昭がつぶやいた。
「思ったより早かったな。だが時が来るというのはそういうものか……」


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 順昭はしばらくして筒井城から南都にある林小路の館に移り養生することになった。しかしこの時代当主が病に伏すということは存亡の危機であった。順昭は病を隠し、七月七日に七夕の祭りをするとして、一族や重臣を密かに呼び寄せた。
「山田道安(やまだ・どうあん)、慈明寺順国(じみょうじ・としくに)、福住順弘(ふくすみ・としひろ)、飯田頼直(はんだ・よりなお)、島友之(しま・ともゆき)、松蔵政秀(まつくら・まさひで)、森好之(もり・よしゆき)」
 枕元に集めた者たちの名を呼ぶ。
「集まってもらったのはほかでもない。私の死後のことだ」
「お屋形様……」
 山田の涙声に、居並ぶ者は動揺を深めた。島が慌てて言う。
「おのおのがた、すぐに、ということではござりませぬ」
「だが来年の春夏までもたないようだ」
 順昭は楽観視させないようにするためか切り捨てた。
「突然で悪いが覚悟を決めてくれぬか。私も死にたくはない。だがこうしてそなたたちに遺言を残せるだけの時間を与えられたことだけは悪くない。戦で死ぬのと変わらぬのだから、そう悲壮な顔をするな」
「お辛いのはお屋形様でしょう」
 山田は耐えられないように呻いた。
「まだまだお若いのに……」
「よしなされ、山田殿」
 低く島が叱責する。
「言っても詮無きことだ。よけいにお辛くしてどうする。お屋形様、どうぞ続きを」
「すまぬな、島。さて、私の跡を継ぐには、息子の藤勝はまだ幼い。松永たちはこの機に乗じて当家を滅ぼそうとするだろう。もしそうなればご先祖様に顔向けが出来ぬ。そこでひとつ案があるのだが」
 彼は大きく息をついた。
「何とかこれでしのいでくれ。多くの者を騙すことになるので心苦しいが、これしか思いつかなんだ。取っ掛かりを見つけてくれた童をも……」
「お屋形様?」
「いや、何でもない。……案というのはだな」

 奈良角振町(つのふりまち)の鷹隼(はやぶさ)の祠近く、昼前の穏やかな雲の下、女ふたりが抜いた草を集めながらほうきで掃除をしていた。このあたりに住む者たちで、興福寺に守られているという安心感からのんびりした風情があった。
「うちの子、すごく寝付き悪いんやけど」
 若い女がざっざっとほうきで掃いた。
「この前法師さまがお琴を練習されていたとき、こっそり連れてきたらおぶうた子がすぐ寝てもうたわ。これからも連れてこよかなあ」
「でも御坊さん、近頃はようどっか行ってはるからのう……」
 老女がほうきを塀に立てかけながらつぶやいた。


   14
「おい、そこのばあさん」
 背後から声をかけられて、老女はのんびり振り返った。武人が貴人を運ぶ輿を連れている。
「ここに黙阿弥という者がいるだろう。呼んで来てくれるか。大事な用じゃ」
 黙阿弥の役に立とうと、ふたりで先を争って庵に入った。
「法師さま! どちらにおられますか」
「はい。何でしょうか?」
 奥から顔を出した黙阿弥に、ふたりは駆け寄った。
「お武家さんがいらしておりますよ」
「御坊さまに特にご用事があるとか言うてはりますよ。いつも呼びに来られる方とは違うようですけど」
「……そうですか」
「最近お召しが多いですよね。お琴のことでしょうか」
 黙阿弥の様子が変わったことに気づかず、女は少し浮ついた感じだ。老女もうなずきながら夢心地だ。
「わしらもありがたく聞かせていただいておりますが、やはりお偉い方でも御坊さまのお琴が聞きたいのでしょうな。ようわかります。お聞きしていると、穏やかな心地になってうっとりして痛いのも忘れてしまいますわ。体の節々の痛みが消えるというか……」
「よう言うで。あんたいっつもうっとりしてるやないの」
「やめてえな、御坊さまの前で!」
「――病そのものは無くせませぬよ」
「病が消せたら仏様ですやん! 人のできることは限りがあるで、痛みがなくなるゆうだけで充分や思います」
「……ありがとうございます」
 黙阿弥が小さな手荷物を持って縁側に出てくると、女が手を差し伸べた。
 使者が待ちかねてやってくるのを、老女が間に立った。
「御坊さまのお支度をしますんで少々お待ちを……さ、できました」
「どうぞこちらに」
「わたくしはしばらくでかけて参ります。いつも申し訳ありませぬが、ここをよろしくお願いいたします」
「任せてください。この辺りの女衆(おなごしゅう)に声かけて毎日掃除して、いつ戻られても良いようにしておきますで」
 翌年六月二十日の辰の刻、順昭は林小路の館にて、まだ二十八歳の若さで没した。親族や三老は遺言通りにその翌日の夜、順昭の遺骸を館の奥に人知れず埋葬し、葬儀や供養もせず、黙阿弥を密かに呼び寄せた。そして彼に事情を伝え、順昭の身代わりとしてそのまま館に置き、毎日食膳を運んで側近の者たちが従来通り給仕した。このことは重臣と近習四、五人以外は知る者はなく、他の家臣たちでさえ順昭は病身ながらもまだ生きていると思っており、ましてや敵方にも知られることはなかった。
 そして、新吉にも知らされることはなかったのであった。



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