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■2007年02月28日(水)  貧乏話は負けない?            編集長 朱
「日々雑感」の愛読者さまから貧乏秘話が送られてきました。
「資源ゴミの日は、まだ使える家具を拾いに行くのが日課で〜す」とおっしゃる貧乏さま。ご立派です。こちらには「うぶすな」という「公器」があるので、これが並みの貧乏さまと違うところです。
 ある日、雨戸を虫干ししようと、めったに閉めない奥座敷の雨戸を引き出してびっくり、雨戸は虫に食べられてボロボロでした。コロのない木の戸は重くて、指を詰めそうで、嫁いで以来、戸袋から出した姿を見たことがないか、記憶にもありません。大工さんに見積もってもらうと、とんでもない額になりました。
 そこでミニコミ紙という公器で「古い雨戸を探しています。廃屋や古家、雨戸を建て替える予定のお宅はありませんか」とコラムで書いたところ数件の名乗りが有って、無事に8枚の立派な雨戸が手に入ったのです。
 ミニコミ紙は魔法の情報紙です。
 不特定多数のどなたかに向って訴えかけると、即、反応があります。欲しいものを求めたり、同好の志を募集するなど、居ながらにして情報を操作できます。ネットがまさにそうですが、また、ネットの信用度は低いようです。
 こうして見ず知らずの方と親しく交信できるありがたさは、情報誌とは違う奥行きがありますね。資源ごみを有効に生かすなんて、すばらしい貧乏さんではありませんか。
 まだ古い敷板を探していますが、解体する予定の古屋はありませんか。

■2007年02月27日(火)  墓石のたたり?              編集長 朱
 様々な方から、様々な相談をいただくようになりました。
 中には首をかしげるようなものも。

1 結婚前に私の小説のファンだった。
2 10日ほど前から頭痛がして、病院に行っても、薬を飲んでも治らない。
3 先日、墓参りをしたら、墓石の頭部に落葉が張り付いていた。
4 墓をきれいに洗ったら、頭痛が消えた。
5 こんなことがあるのだろうか。「神仙人奇譚」の作者に問いたい。

 どう答えて欲しいのか、具現化できない心象面は証明のしようがありません。もし、お墓をきれいにしたことによって、あなたの心が癒されて、しつこい頭痛が消えたと言うなら、それは良かったことです。が、10日も頭痛がしたのなら、やはり一度、病院で精密検査をされた方が、安心です。
 痛みは身体の危険信号なので、肉体から発せられた信号は、解読すべきです。
 「チベットでの体験を小説にした作者なら、きっと神秘的な答えをするのでは」とお考えの、あなたさま。私は神秘主義者ではありません。
 チベットは一年の三分の一が凍っていますので、死者を土葬にしても腐らず、火葬は燃やす材木が貴重で、仏の使者である鳥に食べさせる鳥葬にしました。現在は中国政府の指導で火葬にしています。石に経典を彫って辻に積み上げても、日本人のような石の墓を立てませんし、墓石そのものを信仰の対象にはしません。
 墓石がよごれたら、欠けたら、その所有者の家族に祟る、なんて、本当に信じていらっしゃるのですか? 墓石は亡くなった方たちの記念碑なので大切にしますが、それ以上の崇拝や畏敬まで必要でしょうか。ご先祖はあなたを守ってはくれても、祟ったり、身体的な妨害などしませんよ。
 私が鬼籍に入ったら、できることなら子や孫を守って上げたいと願います。

■2007年02月26日(月)  超過酷な家事労働            編集長 朱
 昨日の雑感を読んで、実家や昔の家が恋しい方からおたよりをいただきました。
 家族のためにリフォームをしたけど、前の家がよかった…。とは、お気の毒です。
 便利になるということは、替わりに何かを手放さなくてはならないのでしょうね。
 でも、奥様や娘さんが喜んでおられるなら、それはそれで良かったではありませんか。
 昨日白状しましたとおり、我が家は農家で井戸場まであります。この井戸場に4ヵ月前、ようやく待望の「全自動洗濯機」が参りました。
 全自動です。洗濯物を入れてスイッチポンの全自動です。
 ようやく近代の香りする主婦の労働改革でした。「何と大仰な、今までは手洗いですか」とは聞かないで、きちんと二層式の電気洗濯機を使っていましたが、問題は水にありました。
 井戸場に洗濯機を置けば、どうしてもタダの井戸水を洗濯に使いたくなるもので、しかもバケツですくうので気持ちが良いほど大量に水を使えます。それなのに有料の水道水は細い蛇口でトロトロと。水槽いっぱい溜まるのにけっこう時間をかけて、トロトロと。
 待ち切れなくて、井戸の水をすくっては、胸の高さの水槽に、ザッー!
 水入りの重いバケツを、一気に引き上げては、ザッー!
 井戸の溜め水は足元にタユタユと。バケツを落として、一気に水槽に、ザッー! 
 水入りバケツで屈伸運動、7回。
 本洗い1回ゆすぎ3回、計4回。それに7回、計28回。
 水入りバケツの屈伸運動、洗濯1回で28回となると、我が家の洗濯は最も過酷な家事労働でした。
 ようやく、全自動洗濯機が我が家に入り、文明の利器の恩恵を授かっています。
 なぜもっと早く、世代交代しなかったのか。楽になったとたん、無意味だった労働時間を悔いるなど、不毛な反省をしています。
 リフォームの完成予想図を見ながら、きっと少し、生活が便利になるけど、次は何を失うのか、ゆっくり時間をかけて、差し引きを計って行こうと思います。   

■2007年02月25日(日)  天井が落ちて床が抜けた話      編集長 朱
 台所の天井が落ちました。床まで抜けました。
 どんな家に住んでいるのかと思いますが、落ちたり抜けたりしたところはみな昭和に修理したところで、大正期(だと思うけど)創建の母屋はビクともしていません。
 我が家は映画「あかりの里」の撮影にも使ったほど、古い貧乏な農家です。昔の農家は夏涼しく、冬は寒いけど、家の中に湿気は溜まりません。天井も高く、使わない部屋の襖は開けっ放しで、風通しもよく、台所も高い吹き抜け天井の煙り返しや、太い梁が今でいう換気扇の役を果たしていました。でも昭和の一時期、農協さんの斡旋で「おくどさん」の台所をシステムキッチンにリフォームすることが流行りました。ついでに、余った部屋を、使い勝手の悪いエセ洋式の応接間に改築したものです。
 古くても健全な日本の農家が、奇妙な和洋折衷で、湿気の多い台所の天井を合板で貼って低くし、開放的な空間をアルミサッシで密閉して、壁に申し訳程度の換気扇一つで、汚れた空気をかきまぜていましたが、そろそろ、合板の寿命が尽きたのか、天井や床板が腐り始めていました。
 台所を工事し始めたら、炊事は井戸場でしなければならないので、冬場は避けていました。寒風吹きすさぶ外の井戸場で、手を凍らせながら野菜を洗うなんて、考えただけでも時代錯誤です。
 ようやく春。待ち遠しい春。台所が綺麗になる春。
 その前に、工務店さんにデザインの相談です。
 うーん。どうも触り過ぎるのよね。農家は農家のおもむきを残して、新しい台所。
 うーん。農家は人の出入りが尋常でなく、多いのです。だから、寺の寄り合いのように一斉に帰さないよう、お客さまを大切に1人づつ送り出せるように、靴脱ぎ石は必要なのです。
 うーん。食器乾燥機はごつくて場所をとって、不細工だから、きらい。
 うーん。オール電化なんて、まだ時代に追いついてません。お風呂は薪です。 
 うーん。うーん。うーん。楽しい悩みです、うーん、うん。
 

■2007年02月24日(土)  群れの中の普通             編集長 朱
 本業の「うぶすな」は23日締め切り。
 この数日間はメールの返信も短くなり、電話応対も挨拶が消える忙しさで、ようやく脱稿、入稿が終わったところです。
 ネットに戻りましたが、雑感のお客様から「普通」という御題をいただきました。
 普通でいたい、普通じゃない、普通だったら…。
 普通って何でしょう。何を指して「普通」と感じるのでしょうね。この雑感にお手紙を下さる方はほとんど、何かに優れて、それなのに突出して優れ過ぎないので、反対に自信を亡くしている方が多いようです。
 平均値を求めるための棒グラフを見て、どこで「普通」のラインを引きますか? 左右の実態とかけ離れた数値で区切ってしまうでしょう?
 天井を廃し、下段を足切りにし、中位を求めるためにその中で、さらに天井を廃し、下段を足切りします。そして得た「中くらい」の「普通」です。「普通」って作為の結果じゃないですか。「普通」とは集団の生む幻覚ではありませんか。
「家族にもっと普通になれと言われるけど、何が普通なんですか」というあなた、その感性はすばらしい。見るべきところが見えていますよ。
 個性の時代に、みな個性的であろうと模索する時代に、個性が芸術を生み、お金儲けまでする時代に、なんて時代錯誤な、こ、と、ば。
 才あるものたちよ、普通でない方々よ、群れなさるな。群れるから苦しいのです。群れに調和しようと縮んだり背伸びしたり、自分でない自分を演じるから、あなたの個性が悲鳴を上げるのです。
 あるがままの自分が「普通」であって、他人の物差しで自分を計る必要はありません。なんだか、辻占のおばさん気分ですが、このような「日々雑感」でもよろしいのかしら。
 どなた様も、またお便り下さい。

■2007年02月22日(木)  足長おばさんを発見           編集長 朱
 十八日に奈良女子大学で「複合メディアを使った地域おこし」の基調講演を行ないました。今回初めてCDで映像解説をしたのですが、いやぁ、便利ですねぇ。いまさ何をとお思いでしょうが、この年になると新しいことを覚えるのが苦手なのです。
 ことにパソコンはなぜあんなに英語だらけなのでしょう。
 現役の殿方の会話も英語が多いですね。
 会話の内容が日常に即していないので、日本語でさえ耳新しいのに、それを英語で使われると2重の通訳が必要です。
 私は日本語表現が好きなので、日本語で頑張ります。
 以前、うぶすなの「透彫」というコラムで、地域の文化活動や市民運動の担い手はほとんどが女性なのに、代表となると男性を担ぎ出すのはおかしくないか。と田舎の文化活動の問題点を指摘したことがあります。
 ところが今回のシンポジウムで、新たな発見がありました。
 1人のパネリストがおっしゃった、団塊の男性諸兄がどっと地域に戻ってきた時の対処です。男女共同参画の理念に従って、女性が生んで育てた文化サークルの「中核」に、無防備に男性を迎え入れては、組織活動が変わるのではないかとの意見がありました。
 また、会場にいらした女性起業家から「男性の妨害は女性の比ではない、足を引っ張られて、足が長くなりました」という報告で小さな笑いが起きましたが、映像解説の小道具一つ自由に操れない、草の根活動の女性代表には、厳しい試練の季節になりそうです。

■2007年02月20日(火)  短期戦と長期戦              編集長 朱
 長文がたくさん送って来られました。
 みなさま、自分は独自の感性で悩んでいると思われていますが、音楽活動にせよ、絵画、文学、お稽古事にせよ、ジャンルが大別されるだけで、最後を除いて悩む内容のほとんどが同じです。
1 自分に才能があるか。
2 あると信じたいが、確証がない。
3 この道に賭けて大丈夫か、将来が不安。
4 有名になってプロで食べて行きたい。
5 この状態で結婚しても良いか。

 ここにメールをくださるほど煮詰まって、天から賜った才能で悩むのですから、悩むこと自体が才能の有る証(あかし)です。ただし、人間は誰でも独特の感性と技を持っていますので、才人はあなた1人ではありません。ジャンルごとの才人が多くて、そこから抜きん出ることが、将来につながります。
 才人たちのどんぐりの背比べで悩んでいるなら、一度ご自身に問うてはいかがでしょう。
 「自分の人生、短期決戦型か長期戦型にするか」。
 短期でプロになり長期にわたってプロ生活を持続させるには、純粋な才能以前に、自分を演出する別の才気が必要のようです。
 宝くじが当たったような、気楽なプロ生活などありませんし、好きな道を生活の手段にしたとたん、楽しいものではなくなります。
 長期戦とは、自立するために就職しながら歳月をかけて、ゆっくりとチャンスを狙うこと。そうすれば、よき伴侶も得て、子どももいて、才能を趣味にした奥行きのある人生を送れます。
 あせらないことです。結論を今あわてて出さなくても、2・30年後でも良いではありませんか。短期にプロになって自分を追い詰めるより、長期にわたって才能を磨きつつ、ゆっくり楽しみながら、自分の才能と付き合うのも良いものですよ。

■2007年02月18日(日)  育てることは見守ること         編集長 朱
 「日々雑感」が読者参加画のコーナーになりつつあります。

○ 親でさえ叱らないのに、他人まで甘やかすのはどうか。自分なら厳しく導くが。
○ 働かない若者の芸術活動は熱のようなもの。どうせ冷めるなら早い方が早く社会に適応する。
○ 身の程をわきまえることを教えるのも、大人のジャーナリストの務め。
○ 食べられない仕事で一生を棒に振るのを見ているのは辛い。

 確かにそうですよね。受賞の見込みのない原稿を抱いて、何年も棒に振る若者に、書き込めば何とかなると煽るのは無責任だ、と叱るのは道理です。
 しかし、私も受賞の見込みのない原稿を何十年も温めて、書いては書きため、書いては書きため、その繰り返しが知らない間に書くコツを身につけて、子育てが終わると同時に花が咲きました。
 まるで、チャンスが時期を待っていたようでした。
 いつ世間に認められるか、どなたが判断できましょうか。
 どんな形を成功というのか、本人の納得以外どんな証が必要でしょうか。
 若さゆえに、ムダにあがいていた経験で断言できます。
 悩んだり迷ったり、進む道を見失っている人に、厳しく接する必要はありません。それも、自分の歳の半分にもいかない若者たちに。
 芸術や創作活動を志す方々は、他の方と違う同じ「宇宙」を持っています。
 現実に生きて、食べて、寝て、暮らす世界とは別な、想念世界を確立しています。そこでは、食べなくても寝なくても暮らさなくても行きていけるから、現実世界で生きる方から見ると、カップメンと画板、またはギター、またはパソコン、それらだけで生息する「宇宙人」に見えるのです。
 親でさえ理解できない若い「宇宙人」は、自分の異端性を悪だと思って世間を怖れますが、それは創作者の内的世界から来るもので、その異端性が芸術を生むのです。
 雑感に寄せられた若者の「僕の作品は理解されないかもしれない」という言葉こそ、オトナが大切に育んでやらなければならない、瑞々しい芸術家の才気ではありませんか。
 誉めるという添え木が必要な場合がありますよ。
 

■2007年02月16日(金)  小さな悲鳴                 編集長 朱
 この頃、「日々雑感」へ様々な相談が寄せられます。
 この感じは自費出版物のビックマーケット、通称「コミケ」に出店していた頃の現象に似ています。当時の購読対象は20代の女性でしたので、コミケ終了後に小説の購読者やファンの方たちとお茶をしたり、お食事をしながら、読後の感想や自分ならこう展開したいといった他愛のない話を楽しんでいました。
 それが次第に、独自の文化活動が親に理解されない苦しみや、世代間の軋轢、また家を出たい、会社をやめたい、など、集団で若い方たちの悩みを、終電を越えて始発までを24時間喫茶で延々と聞いていました。語り疲れた若者が、うつぶせ寝をしたり、数え切れないほどの紅茶を飲んで、トイレばかり通ったり、自費出版もしないただ書くだけの原稿を書き始めたり、そんな若さゆえの懊悩がいじらしくて、気の毒で、見捨ててさっさとは帰れませんでした。
 ただ大人に関心を持って欲しいだけの作ったような悩みでも、他人に語れるまで、自分なりに真情をまとめて、人に吐露することは大切なことです。
 携帯電話で会話もせずにひたすら文字を打ち、心情は絵文字で表現することに慣れた若者が、1文字1文字を指先で拾いながら、自分の心を長文にまとめているのかと思えば、みょ〜に軽々しいネット表現でもその底に在るのは、息子、娘たちの小さな悲鳴なのです。
 思いをまとめて打ち出すには相当、心の中でまとめなければならず、この段階で、まず癒されます。次に、思いが先に走って支離滅裂な文になっても、1、2、3、4、5と5段階に、相談者の悩みを整理してタイトルまでつけると、それだけで自分の解決方法が見えてきます。
 また、人の悩みや苦しみを、本人以外の第三者が否定的に断じてはいけません。なぜなら私たちには、他人の痛みなら何年でも待てる「心の無さ」があるからです。そんな心無い仕打ちで、人様の小さな悲鳴を踏み消してはならないと思うからです。

■2007年02月15日(木)  チャンスは生かそう            編集長 朱
 「日々雑感」へ、人間関係に悩む女性から相談がありました。
 内容を変えて「当たらずとも遠からず」の状態で、掲載の許可をいただきました。
 以下相談内容です。

1 商品のアイデアを募集していたので、応募すると2度採用されて商品化した。
・ 「応募」に対して「採用」されるのは、欲しいアイデアと与えられるアイデアが、よく似たものか、同じもの、また、少し手を加えるだけで望ましく変化するものが、採用への近道です。連続となると偶然ではありません。きっと貴女の思考がその会社の望むものに合っているか、または、その道の才能があります。

2 マスコミに言った覚えのないことが載って、上司に弁解しても信じてくれない。
・ うーん…ミニコミに携わるものとして、大変申し訳ないことです。きっと悪意はなくて、良かれと思って書いたか、記者の感性でそのように持ち込みたかったのか、どちらにしてもあってはならないことです。でも、テレ隠しのコメントが少し脚色されたていどなのに、上司からは祝辞もなく傲慢と叱られたというのなら、それは「嫉妬」というものです。嫉妬に弁解は通じません。こちらの問題ではなく、あちら様の度量の問題だからです。これは本当に辛いものですよね。

3 最近では同僚まで嫌がらせをする。
・ どうでしょう、賞金の一部でみなさんにお茶をオゴるとか、2度めの臨時収入を少し分配してはいかがでしょう。大声で「福の神のおすそ分け!」と明るく、みなさんをお誘いしては? また、お菓子を配るのも良いですよ。ヤキモチは焼いている当人には分りません。なぜ不快なのか分らずに、ただ不快で目障りなのです。プレゼントは人間関係の潤滑油です。

4 今の仕事はやめたくはないけど、このままならやめざるも得ないかも。
・ やめるやめないではなく、問題があれば前向きに対処しましょう。いま逃げても、いつか同じ問題に遭遇します。その時に、あの頃より楽だわ、と笑い飛ばせるほどトラブル解消の経験を積みませんか。今のお仕事は肌に合っているのでしょう? なかなか、そう言い切れるお仕事に出会うことは少ないですよ。きっと才気が溢れているのでしょうね。

5 また応募したいが、これ以上同僚の反感を買いたくない。
・ 今の「肌に合う」お仕事といい、募集の要点をつかめる感覚といい、貴方の今後の生き方が見通せると思いませんか。人間関係で自分の才能とチャンスを潰してはもったいないですよ。誰もが望んで手に入らないものを、貴女は手にしているのです。それを自分でも気がつかずに粗末にしているような気がします。
 目覚めている才能を大切にしてください。
 もっとご自身を、愛してください。

■2007年02月14日(水)  友だちの友だちは皆友だち       編集長 朱
 この2日、一次締め切りの原稿チェックに追われていました。
 その間に、雑感をご覧の方から組織運営の難しさや、珍しい文壇の裏話、友だちの友だちは皆友だちだ、を実感する新たな出会いなどがありまして、ネット世界の奥深さと身近さを同時に体験することができました。
 実は、うぶすな本紙でもなく、この「雑感」をきっかけに、素晴らしい方たちとお会いすることが出来たのです。
 ネットの「雑感」に感想を送って下さる方の、ほとんどが匿名です。顔のないメールの気楽さで始まった短文のお付き合いですが、送信、返信でいつの間にか長文になると、次第に活動内容が具体的になります。そうすれば文章に個性が現れて信頼も芽生え、それが興味深い方なら一度お会いしたくなって、どこかでお茶をしませんかと、ネット世界が急に現実化してくるのです。
 ここに怪しげな犯罪が入り込む危険性もありますが、何度も往復した文章が本物か、筆先だけのニセ物かくらいは、物書き歴20ウン年の記者の感で見抜けるというもの。
 自信を持って、新たな友との出会いにわくわくしながらお会いしました。
 初対面でしかも住所が遠く離れているのに、いざ、お会いして語り合うと、ぐるりと回ったお互いの交友関係が、どこかで重なっているのです。ネット文通が親しくなるはずです、同じ世界の香りを持つ方でした。本当に急に、とても身近な方になって、まるで古い友だちに久しぶりに再会したようでした。
 世間て、広いようで何て狭いのでしょう。
 しかも自分の苦手なジャンル。その猛者たちです。
 お会いしなければ決して分らなかった、その方たちの魅力でした。
 あちらの人脈とこちらの人脈がつながれば、また、何か楽しいことが起こりそうな予感がします。
 このような人の繋がりが広がって、お互いの少しの手間が誰かのお役に立てるなら、人生って、出会いって、なんてドラマチックで、そして豊かなのでしょう。
 ネットの仮想空間から一歩踏み出せば、いつでも現実の一期一会につながるのだと発見しただけでも、私には大きな進歩です。

■2007年02月13日(火)  ただいま一次締め切りの仕事中です。編集長 朱

■2007年02月12日(月)  ただいま一次締め切りの仕事中です。編集長 朱

■2007年02月11日(日)  うぶすな式大仏商法           編集長 朱
 「うぶすな(産土)」は生み出す大地の意味です。
 故郷やふるさと、出生地のことですが、広義に「おかぁちゃんの懐(ふところ)」と解釈して、産み出ようとする地域文化は、何でも応援しよう、紙面でもラジオでも交流会(紹介)でも。と、しかし地域限定のミニコミ紙や、エフエム放送、個人紹介ではメディアとしては相当弱い方ですが、しかし、三本まとめるとなると、あなどれない威力を発します。
 複合メディアを持つことの強みは、自分で企画できることでした。
 例えば、毎月ラジオドラマを作るとか、東京からビックネームをお招きしてレクチャー番組を毎月放送するなど、ホラ話のような企画でも、現実に自由に扱えるタウン誌とラジオ番組があって、非営利で公益性のあるお願いなら、心ある方ならご協力いただけます。
 大学講演のアンケートの中で、「メデイァとは勤めるものだと思っていましたが、自分で作ることもできるのですね」との感想をいただいて、「そうですよ!」と答えられます。
 もっと思考を発展させれば、「地方紙発行のように、個人に売らなくても良いから、営業さえ固めれば経営が楽」なのです。
 創刊の趣旨をご理解いただいて、地域文化の支援に協力的なクライアントを得て足元を固めれば、数百数千の購読者を勧誘しなくても、無料で、発行地域の全家庭に新聞折込で配布することが出来ます。
 この実績だけでも、地域活性の一翼を担うことが出来ます。
 と、言っても、その経済基盤は非常に危ういのは事実ですが…。うぶすなの場合を申しますと、うぶすなには営業がいません。様々な協力者はいらっしゃるのですが、みなさんボランティアなので営業までお願いできず、ビンボーでも座ってお客さんを待つ、大仏商法なのです。
 ま、営業まで手の回る人手を増やす、これが今後の課題でしょうか。

■2007年02月10日(土)  作家志望さんにお答えします 2    編集長 朱
 私の経験ですが、絵描きや物書きはどの年齢になっても現役です。
 忘れなければいつでも書(描)けますし、それなりの花も咲きます。
 質問者の方はお若いのでしょうね。私は「おばちゃん」です。
 若いころに物書きをあきらめました。でもあきらめきれないのでしょうね、ちょこちょことは書いていました。
 ある年、ある雑誌で小説の投稿を募集していました。締切までの一週間で70枚の中編を一気に書いて、投稿しますと、編集者から電話で即、採用とのこと、思いもしない雑誌デビューでした。その担当の有名作家から弟子とまで認定されて、夜行バスで東京に行って、銀座の舞台で「師匠」と抱きあい握手まで交わしました。
 若いころにあきらめるほど遠かった「物書き」が、おばちゃんになって突然降って現われたのです。それから数冊の小説を書いて、ファンと夕食会などをして、記者になり、独立して編集長になり、これからは死ぬまで「物書き稼業」でしょう。
 つまり、人生にはリズムとチャンスがあるから、あわてたり、あせったりしてはいけません。もっといけないのは、めげたり、くさったりすること。
 「書くのをやめて就職しようかな」と思うのは自分の決断。「就職しても書き続けようかな」と思うことも自分の判断。人生には多くの分岐点があります。その内のたった1つですから、いつでも修正はききます。
 悩んで苦しんではいけません。
 条件が重なって、いま通過しなくてはならない道を選んでも、選べなかった道を忘れなければ、どこかで合流したとき、ゆとりも気力もあるその時にこそ、十分に機の熟したチャンスをしっかりつかめばいいことです。
 昔は難しく感じた「生きること」が、経験不足による不安から来たものだと気づいたら、「夢」はあきらめなければ手に入るものだと知っていたら、もっと生きることが楽になったでしょうね。
 だから私は、才能ある若者を全面的に支援します。
 才能があるから、戸惑い悩む若者の未来を信じます。 

■2007年02月09日(金)   作家志望さんにお答えします。    編集長 朱
 いやぁ、嬉しいです。
 早速、作家を志す方からお返事をいただきました。

1 小説が完成しない。途中で書きたいことが変わる。
人によって書き方は様々ですが、初めから筋立てをきちんと決めて、最終のまとめまで組み立てて、内容に少しづつ手を加えて幅を膨らませていく方法。この形式の書き方は、ストーリーが途中で変わったり、ねじれることはありません。

2 盛り上がりのシーンはノリノリで書けるが、それ以外は自分でもつまらない。
では、盛り上がりのシーンをいくつも書きためましょう。つまり小説のパーツを増やすのです。たくさんパーツが溜まったら、それを上・中・下の3つに分けて、大よそにイメージしたストーリーの、どこに当てはまるか、小説のジグソーパズルのように組み立てていくのです。ダブル部分は重ねて割るか、思い切って捨てるか。すると自然に全体像が浮き上がってきます。自分が、何を観て、何を書き伝えたかったのかさえ、浮かび上がります。後は地の文で枚数を調節します。
 この形式はバランスを欠きますが、全体的に勢いのある作品になります。

3 新人賞に何度出しても落ちる。例年の受賞作の傾向を研究すべきか。
受賞したくて小説を書いているのなら、傾向と対策が必要ですが、小手先の技術で数百人のライバルは蹴落とされません。どうしても書かずにはおれなかった書き手の情熱が、自然に作品からにじんでいます。まず一次審査を通ることです。

4 自分の小説は、普通の人には理解できないかもしれない。
書店に並んでいる本ばかりが、本ではありません。普通の人が、普通に読めない作品を求めて自分で書き始めるのが、小説家の第一歩です。大丈夫、その気概だけで十分に作家の卵ですよ。後は書き込んで独特の世界を完成させましょう。

5 書くのをやめて就職しようと思う。
この質問の答えはすでに持っていらっしゃるのでしょうね。このコーナーであまり長く書くと読みづらいので、2日に分けます。
 明日は、「書くのをやめて就職して」おばちゃんになった文筆家のお話です。

■2007年02月08日(木)  出版サギと指導サギ           編集長 朱
 物書きにとって、文学賞や受賞は目も眩むほどの輝かしい目標です。
 作品の受賞には文章の上手下手より、斬新な視点、文章の勢い、味わい、作品の熱っぽさなどが審査に大きく響きます。なぜなら文章など、書き込めばいくらでも上手になるし、書くことのテクニックは、プロの編集者が手取り足取りご指南くださいますが、その人の見方書き方、アイデアはその方でなくては書けないものだからです。
 そういう私も、かつて文学賞にせっせと公募をした時期がありました。
 世の中には、作家志望の方を上手に乗せる商売がたくさんあります。
 原稿を募集して、誉めて、持ち上げて、高額な共同出版に持ち込もうとする会社や、反対に、新人賞狙いの原稿を募集して、けなしにけなして、指導料を取る文章教室など、原稿の束を持っていると何に吊り上げられるか、分ったものではありません。
 実を言うと、かつてその2つ共に引っかかった体験者です。
 資金が無くて共同出版は出来なかったけど、文章教室に原稿を送って、文章チェックを有料でお願いしました。結果、問題なし。…カネ返せぇ〜
 つまり、なまじわずかな才能があると、手に入りようのない無謀な夢を見てしまうものです。
 ところが、捨てる神あれば拾う神あり。
 物事は押してだめなら、引いてみれば違う形に展開するもの。
 何と、自費出版の作家と買い手が一堂に集まって、プロではない、マニアックな作品を求めて、集団で売り買いする全国組織があるのです。製本も自分の懐具合に応じて小部数からできるので、小遣い程度で夢の出版ができて、しかも…売れて、自分の小説のファンまで出来て、サインまでねだられたりすると、ようやく陽の当たるばかりが世界でないと気がつきます。
 そう、モグラにはモグラの地下帝国があるのです。
 と、最近、知人をこの世界に誘惑して、新進作家を世に送り出そうとしております。
 自分に才能があるのか、ないのか、世間に受け入れられるか、そこまで至らないのか。思いわずらうくらいなら、一歩踏み出せば、新しいチャンスが廻ってきますって。
 怖れるな、人はみな才能がある! 
 ある才能で悩むのであって、ない才能では、決して悩みません。
 例えば、私は画家になりたくて悩みはしません。 

■2007年02月07日(水)  履歴書                   編集長 朱
 履歴書を書くはめになり、学歴、賞罰の欄で考えてしまいました。
 私の学生時代は、こういうお上の決め事に過剰なほどアレルギー反応を起こしたものです。なぜ、誰が見るとも知れぬ紙上で全裸になる必要があるのか。年齢くらいはかまわないけど、例えば生年月日。一時期、生年月日に動物を当てはめて、その人の性格占いをすることが流行りました。データさえあれば皆で自由に欠席裁判が出来ました。まるでその歪んだ性格が事実であるように取りざたして、とても不快でした。また生年月日は、カードの暗証番号や組み合わせナンバーにも使う方がおられます。
 そして学歴。
 若いうちは就職などで必要でしょうが、もう中高年と言われて、その後の生き方そのものを問われる年齢になって、なぜ30年ウン前の学歴を問われなくてはならないのでしょう。
 ある方がこんなことを言っていました。
 「私は頭が悪かったから…」
 齢(よわい)70にして言わせる言葉でしょうか。
 「私は○卒だから集団就職でした…」「学校ではドンベだったし」「県の○大生です。もう学歴で恥をかかなくてすみます」。
 ラジオにお招きするゲストさんには、トークの打ち合わせをしますが、その手引きとなる書類には様々な質問要項があります。
 人生半分以上も生きて、地域の文化活動に残りの生涯をかけていらっしゃる方々に、まだ20代の区切りを問うのか、と。そのたびに、ゲストの方が少し戸惑い気味にお答えくださるのが、苦痛でした。
 ならば私は問わない。
 どなたの学歴も問わないし、問わせない。と決めました。
 提出書類には年齢さえ大雑把に書いて、住所も町どまりです。毎週提出する書類がそんな具合なので、そんな大仰な決心をしたことさえ忘れていましたが、大学の講演を依頼されるようになって、何度か履歴書なるものに突き当たるのです。
 「ゲストさんには問わないけど、一応正規の書類だし書いた方がいいかしら」と思いましたが、これはポリシーであって、文筆に携わるものの啓蒙なのだから、ここはきちんと説明をして納得をしていただこう。と思って、説明をすると、さすが中高年の方はすぐ納得してくださいました。しかし、若い担当者は「規則ですから」と引きません。
 なんですと?我らの世代に「規則」を当てはめようとか。
 ムクムクと反抗心が持ち上がって、学歴欄の第一行目に「結婚以来家事従事」と記しました。その後の履歴は詳しく書きましたが、それこそが重要なのですから。

■2007年02月06日(火)  そろそろいいかしら 26         編集長 朱
○ 七転び八起き

 「そろそろいいかしら」と書き始めて、もう26回。
 そろそろよかったのは私の方で、書くことで心が癒されたような気がします。
 映画は勢いで作れました。
 その勢いに乗って雅楽フェスタも成功させました。雅楽フェスタの成功で、ようやく映画制作が「まぐれ」ではなく、自分にプロデューサーの資質があることに気がつきました。
現在4月からのラジオの新番組を軌道に乗せるべく、あちらこちらで人と会っていますが、映画制作や上映の実践で学んだノウハウが非常に役に立っています。
 プロデューサー判断に欠かせないものは、即断即決と全体像を見渡せる高い視点です。それとやると決めたことは必ずやり通す、意志の力です。
出発点から完成まで大雑把でも見渡せると、途中のトラブルなど、そこに至るまでのわずかな障害にすぎないと感じるのですが、ただ連れられて参加して、先が見通せぬままトラブルに遭遇すれば、それが小さなトラブルでも越えようのない障害に感じられるのも無理からぬこと、と今なら思えます。
 トラブルも共に楽しむゆとりが必要ですが、そのゆとりが返って不信感を生んで、みんなで一歩進むということは、なかなか進めないということがよく分りました。それに、激論や不仲を怖れていては成すものも成しません。
 また、企画の全容が見え始めたら、ある程度は個々に任せることです。
 映画制作と上映興行、見知らぬ世界に踏み込んだ、素人プロデューサーの七転び八起きのご報告はひとまず、これにておしまい。
 連載中、たくさんの方においでいただきました。ありがとうございます。
  明日からはタイトル通りの「日々雑感」に戻ります。

■2007年02月05日(月)  そろそろいいかしら 25         編集長 朱
○ DVDの制作

 映画ができると上映で流すだけでなく、出演者や協力者、オーナーズの手許にも映画を記念として残したくて、初めからDVDの制作は頭にありました。
 しかし、ワンコインの低価格上映なのに、会場費や技師さんの日当など支出が増えて、このまま赤字ではDVD制作の支出には耐えられそうもありません。
 ところが、ワンコインの非営利なら会場費がとても安価になるのです。また、会場を無料で貸してくださるところもありました。その上、ワンコイン500円の手軽さで、1日に2度も見にきてくださる方や、追っかけのように会場で何度もお会いする方、ご家族全員でいらっしゃる方などで、上映会場はいつもたくさんの方でにぎわいました。
 それでけっこう収益が出て、それならDVDもケース入りの保存版にすべく、横田監督の趣味に走ってもらって、デザイナーさんの手になる2色ずり冊子に、評論家や題字を揮毫いただいた法隆寺長老にお言葉も頂戴いたしまして、自主制作映画のDVDとは思えない、超豪華版のDVDができました。
 出演者やスタッフ、その他200名近い協力者には無料でお渡しして、その方たちが友人知人に配るための自腹配布にはこちらも低価格で応えて、プロデューサー判断の1000枚は瞬く間に在庫が減っています。
 始めは「記念なら1枚でいい」と頑張る方もいらっしゃいました。
 しかし映画を作り始めて学んだことは、何かをしようとした時、人の言うことに耳を貸してはいけないということでした。人様は様々なことをおっしゃいますが、言った言葉に責任を取るつもりなどなく、ただ反対したいから、反対している場合が多々あることに気がついたのです。
 トップは孤独です。
 こんな小さな小山でも、頂上に立てば全体像がよく見えて、次は何をすべきか分るのですが、何も見えずに「絶対反対」だけの声も尊重しながら、全体を望ましい結果に導かなくてはなりません。
 さて、ようやく出来上がった「あかりの里」のDVDは、自宅に再生装置がなくても図書館に行けばいつでもご覧になれますように、もうすぐ県の情報図書館や各町の図書館に配置が完了します。時間がありましたら、ご覧下さい。

■2007年02月04日(日)  そろそろいいかしら 24         編集長 朱
○ 交流の輪の広がり

 まず、ラジオドラマを作ることにしました。
 このきっかけは一枚の年賀状からです。映画「あかりの里」の出演者の所属事務所から、いただいた年賀状の添え書きに、「ラジオドラマの脚本を書いています」とありました。気になって、返礼の年賀状も出さずに電話をして、「作品があるなら見たい、聞きたい」と無理を言いましたら、さっそくDMを送ってくださって、作品を聞いてびっくり、即日電話をして、「会いたい!」と。
 何事も即断即行ですが、お互いに時間のない身で、なかなか空いた時間が取れなかったのですが、その間に、こちらの方は心の準備が進んでいました。
 まず、この作品が私の番組で流せるのか、著作権の問題。他にストックの作品があるかの確認。あるなら4月からの新番組に組み入れられるか。新作なら一年間の長丁場に耐えられるか。そして一番大事な費用の問題。収録スタジオをどうするか。声優さんはデモテープ制作のつもりで無料出演が可能か。その代わりに、完成したラジオドラマは責任を持って独立番組で流すこと。いずれ完成作は、大手のラジオ放送に売り込む予定があること。

 ようやく事務所の方と会える時間が取れて、会える寸前に軽いトラブルが発生して、もしかすると、お会いしても放送で使えないかもしれなくて、申し訳なくて、少し居心地悪く喫茶店でお会いしました。
 ところがところが、お相手は作品以上に素晴らしい方で、この方となら万難を排しても一緒にドラマ作りをしたいと感じましたが、もう1人大事なスタッフの了承を得なければなりません。
 未解決の問題を抱えたまま、うぶすなのラジオ編集スタッフと3人で会って語り合い、次第にラジオドラマ制作に話が進み、月に1本、年間12本。「よし、やりましょう!」と話が決まりました。
 懸案は資金調達のこと。お金など何とかなります。
 こんなに良い出会いはビッグチャンスと同じこと。それなら船出しなければ。シナリオ制作に行き詰れば、交流会のメンバーに頼むこともできるし、いざとなれば自分で書けばいい。この強みがあるから話の展開は早く進めます。
 映画の制作が、こんなすばらしいご縁につながったことを心から感謝します。
 横田監督、ありがとうございます。

■2007年02月03日(土)  そろそろいいかしら 23         編集長 朱
○ 上映と講演活動

 自主映画の興行を、いつまでも新聞や雑誌に載せ続けることには無理があります。
 マスメディアの協力もなく、派手な宣伝もなくホールや劇場で上映を続けるには、出費を支えるだけの資金が不足です。資金以上に入場者が欲しいところ。手分けして友人知人にチケットの手売りを頼んでも、範囲が限られますし、この映画を、広く多くの方に知っていただきたいとの趣旨にもはずれます。
 メディアがダメ。上映も無理。
 しかし知名度は広がって、お蔵入りには少し早い。
 ではどうすればいいか。
 そこで、講演活動に切り替えたのです。
 大学や企業で講演をして、好評なら、いずれ時を選んで、会場も鑑賞者もそちら手配で上映会を開いていただく。これなら、上映会の前後に少し時間をいただいて、映画制作の趣旨や文化活動を語って、できたら暗いままの会場でほのかに燈明をともして見ることもできます。むろん、婦人会や老人会など地域の公民館上映も平行して行います。
 究極の草の根上映会です。
 大学の学園祭などの上映会では、思わぬ成果が見えました。
 現在、大学は地域との連携を模索していますが、なかなか地元の方との交流は難しいようです。
 特に学生中心の学園祭に、大人が遊びに来ることは少なかったのですが、学園祭実行委員会主催の「あかりの里」上映会には、多くの中高年の方が、大学に至る交通手段を電話で問い合わせて参加されるなど、普段の学生上映会とは趣の違ったものになりました。上映会の後の交流では、おじさん、おばさんの戦後の貧しい燈明生活の話も出たり、ある会場では、燈明のあかりをつけた中で、阪神淡路大震災の時はティッシュをよじって灯心の代わりにした貴重な経験談もいただき、主催者側も思わぬ成果に感慨深げでした。
 私もこの映画上映で、世代間交流ができることを発見しました。

■2007年02月02日(金)  そろそろいいかしら 22         編集長 朱
○ 上映場所を求めて…

 制作と上映はまるで違います。
 撮影や音合わせなど、制作段階は創作中なので、毎日がドラマチックでした。しかし上映は興行です。各新聞社に売り込んで宣伝していただいて、みんなでチケットの手売りをしても当日はバクチのようなもので、当たり日とはずれ日があって、舞台の袖からそっと観客を覗いては「今日は7割がた席が埋まってる」と、当たり日はワクワクしていました。
 今後も映画の上映を続ける限り、マスコミに取り上げられるような、新たな話題を提供しつつ広域的な宣伝活動が必要です。
 映画は、作ってしまえば終わりというものではありません。
 映画を作ろうと思った時点では、これほど長く上映に歳月を取られるとは思わずに、安易に興行の世界に踏み入ったのですが、新しい人脈もできつつあり、これもまた楽しからずや、です。
 メディアの制作は懲りたはずなのに、ただいまその人脈でラジオドラマを制作中です。
月に1本、年間12本。
新たな制作スタッフでスタートしましたので、乞ご期待。
話を戻します。
自主映画は上映をやめたときが終わったとき。
 どんな小さな会場でも、無料であっても、上映しているあいだは「あかりの里上映委員会」は健全に機能していますが、上映には場所と機材が必要ですので、上映場所が決まるまで、各大学や企業で講演活動を続けて話題を保ち、人の輪を広げることで、映画の認知度を高めます。
 草の根の文化活動は、地道な運動で支えるしかありません。 
 

■2007年02月01日(木)  そろそろいいかしら 21         編集長 朱
○ 映画に出演した!

 「みんなで映画をつくろう」と立ち上げて、出資金を募った一番の口上は、「映画を見る側でなく、作る側になろう」そして「エキストラで、映画に出演してみない?」でした。どんな立派な名分も、知的で文化的な説得も、そこに遊び心がなければ「よし、やろうか!」と腰を上げてサイフを開くまでには至りません。
 私たちオーナーズはその点、遊び心と好奇心が秀でていました。
 さて、クランクイン。
 生まれて初めての映画出演に緊張して、ビールを注ぐシーンがうまく撮れません。
 動きがギクシャクしています。
 女優さんがピールを注ぐと、とてもスムーズです。
 一番難しいのが、さりげなく動くことでした。歩くだけなのに、腕の振りが妙に大きかったり、じっと立つだけのシーンさえ、カメラを通して見ると、ただ棒のように立っているだけに見えます。「ただ立っている」演技がないのです。本当に、役者さんてすごいなぁと感心しました。
 では私はどこに出演したか。うふふ、チンドン屋さんの白塗りのお殿様です。
 協力者の方は、チンドンでもお姫様がいいらしくて、私がハミゴになったお殿様に。
 みんな、何度もやり直し。チンドン、チンドン、ただ与太って歩くだけなのに、なぜか動きが地味なのです。真夏の炎天下の撮影です。汗が噴出して、ゴムの殿様のカツラに汗が溜まって、厚塗りのドーランの上をまとめて流れ出ました。
 ちょうど、奈良テレビが来て撮影されましたが、殿様の後姿の、腰の部分が、やはり隠しようのない私でした…。
 もう一ヶ所は、孫をかわいがるおばあさん役です。おじいさん役が急に出演できなくなったので、大人しいオーナーズを呼び出して無理矢理、結婚して、熟年夫婦役の「遠景」で出演しました。長い待ち時間の間に、カレが「ボクは出演料いりませんから」というので、「あら、慰謝料なしで離婚してあげるンだから、感謝しなさいよ」というと「ありがとうございました!」ですって。
 セリフのある人、カットされた人、横顔だけ、片腕だけ出演、うどん屋で背中だけ。オーナーズ特典の試写会はワイワイガヤガヤと、全員映画評論家になって楽しく盛り上がり、ビールが美味しくて。
 めったにない経験といい死に土産ができた事と、それと、思った以上の仕上がりに、監督に感謝! 楽しく酔えました。

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