top01.jpg(15503 byte) top top2 map mail
トップページ>日々雑感
■2007年01月31日(水)  そろそろいいかしら 20        編集長 朱
○ 俳優さんが泊まった!

 映画に関する様々な協力の一つに、俳優さんや撮影スタッフに宿を提供してくださったお宅があります。我が家は3人の女優さんが泊まりましたが、10人近い男ばかりのスタッフを長期間泊めてくださったお宅は、大変だったとお聞きしました。
 サラリーマンの生活パターンと、昼夜兼行の映画人では時間感覚そのものから違っています。うぶすなの編集作業でさえ、深夜の2時、3時の就寝はザラ。ことに若い方の多いスタッフの受け入れは、さぞや大変でしたでしょう。
 スケジュールの都合で現場を早く引き上げても、夜遅くまで、翌日の撮影の打ち合わせや役者さんを入れたスタツフ会議などで、深夜まで話し声が続けば、翌朝早く出勤される家主様には、ご迷惑だったと思います。
 この世界にご理解のある方だからこそ、ご辛抱願えたのだと思います。

 現場が昼夜兼行の押せ押せの時間になるのは、制作資金が少ないせいもあります。
 撮影に使う機材が半日リースしても24時間でも、1日は1日の料金で計算されますので、つい24時間の撮影となり、次第に強行軍になって、夏場の撮影では道路で仮眠というハードスケジュールでした。
 差し入れはジュースより、お茶。いつもお茶。
 主な撮影は8月の炎天下で行なわれましたので、どれだけ飲んでも、水分が体の中を行き渡って吸い込まれました。また、深夜にライトを煌々と当てて、反射板で光を調節しながらお昼を再現しますので、いつも熱を浴びている状態でした。
 3人の女優さんをお泊めした我が家では、一番のご馳走がお風呂です。
 ナチュラルメイクでもけっこうコッテリのお化粧なので、毎夜のお風呂は欠かせず、深夜の撮影が終われば、深夜にもお風呂。朝風呂が必要なことも。でも、早く終わったときなど、ちょっと女優さんの部屋にお酒を差し入れして、色々なおしゃべりをしました。
 若くても、正面をしっかり見つめて歩く方々は、ステキです。
 にわか民宿は一週間ほどでしたが、嵐が吹き去ったような、不思議な体験でした。

■2007年01月30日(火)  そろそろいいかしら 19         編集長 朱
○ 映画を作ってみたい!

 日々雑感で、映画制作の苦労話を載せ始めると、多くの方から、映画への想い、優良映画を自主上映する方法、大雑把な概算はどう考えたらいいのか、と様々な質問が寄せられています。
 その中で、「映画を作ってみたい」方にお返事をいたします。 
1 自分が生きた激動の時代を、映画で残したい方。
 (脚本あり。舞台で上演した実績があるが、何度も上映できる映画にしたい)
2 研究の成果を映像で残して、DVDで販売したい方。
 (歴史上の人物を研究してきたので、自分の新解釈を世に問いたい)
3 地域の変貌する景観をドキュメンタリーで残したい方。
 (すでに何本ものテープがあるので、編集とナレーションを入れるだけで形になる)
4 斬新なアイデアがあって、それをアニメでも物語にでもして発表したい方。
 まだまだ、たくさんの夢が送られています。監督経験者の映像作家の方からも、自主映画への熱い想いが寄せられていますので、お互いをご紹介すれば、その夢は現実になるでしょう。
 ただし、やり始めたら、決して途中で止めないことです。何度も、こんなはずではなかったと思うことがありますが、最後まで完成させる、粘り強さが必要です。
 まずあらすじを書き、原作を仕上げて、脚本に出来なければ脚本家に頼み、後は資金集めですが、映画のスケールでかかる費用はピンからキリです。
 原作を自費出版しても、100から200万はかかります。映像なら最低でも300は用意したいところですが、映画制作の怖さは、天候不順や編集の手間など、なかなか期限内には完成しないところです。それまで見込んだ資金のゆとりが必要です。
 ですが、大学の映像部や地元の劇団に丸投げする方法もあります。
 つまり、脚本と手付けを渡して、作品になったものを買い取る方法です。これなら安くあげることができますが、もしかすると安かろう、悪かろう、の仕上がりになる恐れも。 
 または、信用と実績のあるプロ集団に頼んで、実際に自分も撮影に関わると、映画制作の楽しさが倍増します。もしよろしければ、あかりの里のスタッフをご紹介しますが、何度でも言います。まず完成させること。何があっても、やる気だけは失わずに、不満は完成した後で言いましょう。
 まず、出来上がることが最優先です。つまり映画制作とは、金がかかる以上に、できるかどうかが勝負になり、それまで、何としても気をしっかり保つことです。
 あかりの里が予算内で完成したのは、出さない会計と、それに答えて頑張ってくれたスタッフのおかげです。
 双方に感謝。

■2007年01月29日(月)  そろそろいいかしら 18         編集長 朱
○ 映画の上映は、映画館か公民館か

 昨日の「映画上映にいくらかかるか」に、多くの反響がありました。
 名作映画の上映会を考えていらっしゃる方は、けっこういらっしゃるのだなと思いまして、昨日のデータをさらに詳しく書き加えましたが、本当に真剣に上映を考えているなら、個人的にチラシ印刷の紙質(上映会館を変えるごとに案内データが変わるので、コピーの使える紙質が良)から、チケット印刷の値切り方まで、すべてお教えします。
 質問で一番多かったのは「映画上映は映画館がいいか、公民館がいいか」、でした。
 当然、映写設備も音響設備も良い、椅子だって柔らかい映画館か大ホールがいいに決まっていますが、難点は場所代が高いこと。または会場使用料とは別に、売上の何%か差し引くところもありますが、そのような会場は、宣伝広告からチケット販売、チラシ配布まですべて面倒を見てくださるので、最終的にはよい結果が出ます。311席の会場が、前半8割がた埋まって、ワンコインで一割引かれても後半の入りに支えられて、興行は黒字になりました。
 いい映画だからと午前、午後、と2回も入場くださった方もいらっしゃいました。
 これが一枚1000円でしたら、半分も埋まったかどうか。
 ほぼ満員だった!! 大成功でした! の評価は、すぐに次期上映の依頼につながりました。
 本筋に戻ります。
 ホール上映が当たるかどうかは「懸け」と同じです。
 興行が本業なら、1度や2度の失敗も次の興行で取り返せばいいのでしょうが、婦人会や各種団体、地域のサークル活動で名作上映をする場合、安い(住民なら無料から1万まで)、無理がきく(試写が無料)、入場者の顔ぶれを見て電話で呼びつけられる、そんな交流の根付いた、地域の公民館が適しているのではと思います。
 いま、文化活動としての「あかりの里」は、草の根運動で公民館上映を続けていますが、会場費の高いホールを使うときの、「絶対、座席を埋めなければ!」という悲愴勘がありません。そうするとワンコインの気楽さで、普通映画を見に行かないおじいさんやおばあさん、小学生、お母さんに手を引かれた幼いお子さんまでいらっしゃいます。
 上映の後、暗い会場に明かりをつけて、先人たちの生活の知恵と住民の文化力を語りますと、みなさん上映の記念に一筋づつ「灯心」を持って帰って、お家で灯してみたいとおっしゃられます。
 このアットホームな交流こそ、公民館上映の底力だと思っています。
 子どもたちに見せたい、みんなに見て欲しい、そんな名作映画を見つけたら、みなさんで協力して地域の上映会をされませんか。

■2007年01月28日(日)  そろそろいいかしら 17         編集長 朱
○ 映画上映にいくらかかるか

 もしどこかで、とても感動的な映画を見て、一般の映画館では上映しないけど、ぜひ他の人にも見てもらいたいと思ったとき、どれくらいの費用がかかって、どう上映していけばいいのか、昨今の自主上映事情をお伝えします。
 まず、興行者に上映の権利がある「あかりの里」は、特異な例で、例外です。
 普通の国内映画や、海外の優良作品などのフィルム賃貸料は、一声10万から15万ほど。もっと安いところもありますので、このあたりはピンからキリになります。無料で貸し出しているところもありますが、有名監督でも古い名作物では観客が集まりません。
 この一年、上映会館を求めて、各ホールを見てきましたが、202席のAホールの場合、土日の9時から17時の空調込みで2万7千ほど。Bホール270席は同込み4万、Cホール300席で同込み6万。どちらも立地条件の良い会場です。
 フィルム使用料は会場の席数で変化しますが、優良でも知名度の低い作品なら7万から10万として、チラシ・ポスター・チケットなどの印刷費が、「あかりの里」はカラー印刷4万枚で22万でしたが、単色印刷で1〜2千枚なら2万ほどでしょう。一回か2回興行の雑費は宣伝費も入れて2万と見て、真ん中を取って約18万ほど。
 そこに映画関係者や監督においで願えれば、追加に3から4万。有名評論家を呼んで25万支払った方もいます。これ以外に見えない支出が続きます。
 収益は1日2回上映で、ペアチケット1000円なら200名以上の入場がなければ、赤字です。自主興行で前売り1300円、当日1500円となると、ハリウッド映画でもレディースディは1000円の時代ですから、興行としては苦しくなります。
 同じように、「あかりの里」上映委員会でも1000円の上か下かでもめましたが、みなさんの協力で出来た映画だから、ご家族で来ていただきたくて、女性たちの声をバックにワンコインで押し通しました。
 ワンコインだから会場費に4万もかけられませんし、来ていただいた関係者の方はすべて無料でした。
 入場料を上映支援金として500円にすると、500円以下なら会場費が半分になるホールがあります。もしチャリティ上映をする場合、フィルム使用料がそのまま支援金になりますので、その他の支出を抑えたほうが成功の確率は高いようです。
 小額にしてたくさん呼ぶか、大手並みにして少なくても収益を上げるかは、主催者の考えです。
「あかりの里」もワンコイン・チケツトを手売りするのはやめました。それが通用するのは1・2回上映くらいですから。場所によってはチャリティでしたり、無料上映でしたり、ワンコインでも百円上映の時も。おかげさまでもうすでに大小あわせて20数ケ所、約3000人以上の方がご覧になってくださいました。
 そして本日は大和郡山市の団地自治会館で上映しますが、どれだけの方に「地域から広域に向って」文化を発信し続けることの意義をお伝えできるか、背筋を伸ばして会場に立つつもりです。
 この上映には郡山自治会の多くの方が携わってくださいました。その方たちとご縁がつながり、ひとりひとりの明かりの集まりが、揺るぎない地域の明かりとなってくださることを願いながら、会場で灯心に火をともして講演させていただこうと思っています。

■2007年01月27日(土)  もう少しで修羅場を脱します。お待ちを! 編集長 

■2007年01月26日(金)  締め切りと収録に追われています   編集長 朱

■2007年01月25日(木)  ただいま締め切りの修羅場中です。  編集長 朱

■2007年01月24日(水)  そろそろいいかしら 16         編集長 朱
○ 仕出し弁当の多良福さん

 オーナーズではありませんが、「大繁盛の多良福さんでヒロイン2人が盛り上がる」シーンでは、地元の多良福さんのお店を借り切りで使いました。大将の気前で、満席のエキストラ全員に宴会料理とお酒が大判振る舞いでした。また昼夜のエキストラ弁当も、資金不足で非常な低価格なのに、毎日が楽しみなほど豪華な仕出屋さんのお弁当です。
 そして「あかりの里」の家族の絆となる子どもさん役に、多良福さんの長女の、名前も同じ「朱里(あかり)」ちゃんに出演願いまして、一般のお子さんなのに、子役顔負けの辛抱強さと、深夜に及んだ長時間の待ち時間にも頑張ってくださって、お母さんはお店をほったらかしで撮影の協力をしていただきました。
 多良福さんだけではありません。
 お宅を丸ごとお借りしたり、家1件そっくり内装付きで貸してくださったり、また真冬の撮影にお婆さんも出演いただいて、深夜まで長時間撮影しても、収録では全部カットされて、お詫びに伺ったことも。
 丸1日、役者さんの控え室から器材設置の部屋まで入れると、数部屋は使った料亭の「十三屋」さんのシーンも、出来上がりは色抜きの回想シーンに。
 セリフもついた初めての映画出演で張り切っていても、上映のときは消えていました。
 映画の撮影は、演じた材料を撮っているだけで、本当の制作は収録で決まるのだと、頭では知っていても、実際に制作に関与して始めて、善意の無償のエキストラさんを使う難しさを感じました。役者さんなら演じることが仕事ですので、収録でカットされても苦情は出ません。しかし、善意の協力者は、苦労して演じて撮られると、作品に残ると信じて十数回のやり直しにも我慢してくださいます。
 友人や甥っ子たちにも無理を言って出演してもらったのに、全面カットだったり、振っている腕だけというのも。試写を見て、その旨を謝りながら伝えましたが、母子共にがっかりさせてしまい、とても残念でした。
 映画のプロデューサーは、初めから最後まで、謝ってばかりです。 

■2007年01月23日(火)  そろそろいいかしら 15         編集長 朱
○ 集会所の石材屋さん

 映画をつくる会は、交流会の会場の王寺中央公民館で誕生しました。
 交流会に出席してもオーナーズ会には欠席するオーナーもいらして、映画をつくる会の集会日を、新たに作る必要性を感じ始めていた頃、オーナーズから、「平日の昼間は会議に参加しにくい」との声が上がり、そろそろ「映画をつくる会」は交流会から独立した方が良いのでは、と思っていました。
 その時、オーナーズの石材屋さんから、「2階が空いているので、よければお使い下さい」との申し出を機に、石材店さんの2階を、「みんなで映画をつくる会」の根拠地にすることにしました。
 1階が事務所なので申請書類の制作から、通帳管理から、シナリオ150冊の保存や、チケット管理など、事務と場所関係の雑用を一手に引き受けてくださいました。草の根の文化活動はシンプルがベストですが、次第に書類が増えて、会議前にはコピー資料が回ることになって、お忙しいのに大変ご迷惑をおかけしました。 
 議論が白熱化すれば、意地やメンツまで顔を出して、折り合う気持ちまで消えて、つい声高になりますが、そこへ、さりげなく割り入って下さったり、そっとお茶やコーヒーが出たり、長引けばお寿司が出ることも多々ありました。
 仕事が終わって集まれば、映画の話以上に情報交換や脱線話で盛り上がります。おしゃべりの合間に、お茶やお菓子、コーヒーやクッキーまで出していただきました。本当に集会所として長い間、お世話になりました。
 ありがとうございました。

■2007年01月22日(月)   そろそろいいかしら 14        編集長 朱 
○ 顧問と題字と屏風と

 監督の横田丈実さんと映画を作ろうと思ったとき、まず一番に、「顧問は法隆寺の高田良信長老にお願いしよう」と思いました。
 7町住民が一団となって地域の映画を作るのに、相談役が政治家であってはならないし、名前だけの文化人でも趣旨に反します。
 それも法隆寺のお膝元で、世界文化遺産の法隆寺を中心とせずに、庶民の文化遺産を映像に残すなら、反対に、7町すべてにゆかりのある「聖徳太子」さんのお寺の、うぶすなに深いかかわりのある(一年間執筆いただいた)、高田良信長老に映画の顧問をお願いしようと思ったのです。
 チベットの仏蹟調査に随行させていただいたご縁と、その後の友誼に甘えて、ちゃっかり映画の題字の揮毫もお願いしました。
 次第に各メディアにも載ってマスコミにも取り上げられ始めて、多くの方の支援がじわじわと一つに集まって、全体的な協力体制が整い始めると、前代未聞のお祭り騒ぎにワクワクしながら、毎月開催する「夢殿サロン」で長老にご報告申し上げていました。
 ところが、毎月のサロンで長老とお茶をいただきながら、「これが私たちの映画です」と、脚本をお持ちするのに半年かかりました。途中で長老も心配されて、「進行の具合はどうや。大丈夫かね」と声をかけてくださり、「こういう人もいるし、この道の人もいるが…」…と、素人集団の心もとなさにお心遣いをいただきまして、本当に心丈夫でした。
 ようやくタイトルも決まって、「あかりの里」の題字を長老に揮毫いただきました。
 大きな色紙に、縦と横に5枚もいただいて、映画のテーマに添ったご親筆から、普通に暮らすことの大切さがにじんでいました。その中の一枚が、現在、ポスターにもチラシにも掲げました「あかりの里」です。
 いつか、とても楽しかったけど、とても苦しかった企画を無事に完成した、その思い出として、このご親筆を、いままで長老にいただいた色紙や短冊と共に、屏風に張り替えて、我が家の家宝とするつもりです。
 本当に、厚かましいお願いの数々を快く引き受けてくださり、ありがとうございました。心よりお礼を申し上げます。
 

■2007年01月21日(日)  そろそろいいかしら 13         編集長 朱
○沖縄上映!

 代官山の上映会場に来た東京在住の友人も、通りがかりに立ち寄った方も、物語が佳境に近づくと手が顔に動き始めました。東京のお客さんは「あかりの里」のゆったりと流れる奈良時間にひたって、心のふるさとに帰っていました。
 では鳩間島はどうでしょう。
 沖縄県八重山郡竹富町字鳩間島。関空から一気に石垣島へ。石垣島からジェット船で西表島へ。急ぐときは西表島から鳩間島へ電話をして傭船を頼みます。急がない方は定期船でどうぞ。風が吹けば欠航、風向きが悪ければ時間をかけて。
 ここは「瑠璃の島」で有名になりつつある、過疎の離島です。
 島おこしの「鳩間島音楽祭」の主催者「加事工 勇」さんご夫妻を、王寺の公民館にお招きして「島唄ライブ」を開いたのは2年前。うぶすなの一面で紹介して、ラジオ番組も交流会にも参加されたのが、「みんなで映画をつくる会」を公表した平成16年10月のこと。
 離島の島おこしと、内地の町おこし。同じイベント主催者として、沖縄と奈良の文化交流のために、島で「あかりの里」を上映したかったのです。
 島でDVD上映が出来るのか、設備はあるのか、受け入れられるか。
 平成18年2月、試写会を終えて作品を確認した後、上映の打ち合わせのために、ツレアイの「お誕生日割引」の航空券で一路、鳩間島へ。その日の内に島唯一の公民館で暗幕と錆びたパイプ椅子を確かめ、学校から借りる設備も確認して、公民館長の加治工勇さんに「上映委員会の取り決めで1人500円の協力金は頂きますが、収益は会場費として公民館活動にお使い下さい」とお任せしました。
 この島からお金は取れません。
 5月2日音楽祭の前日。沖縄の5月は内地の初夏で、当日は爽やかな五月晴れ。島に貼られたチラシと島内放送に誘われて、祭り酒でホロ酔い気分のオジイたち、オバアたちが集まってきました。公民館の天井は、縦3列横3列、計9台の扇風機がグィーングィーンとぬるい空気をかき混ぜて、それが返って眠気を誘って、みなさん神妙にパイプ椅子に座っていましたが、戸が閉められ、暗幕が張られると、空調のない会場内はとたんに息苦しくなって、そして「あかりの里」の静かなイントロ。
 しばらくすると椅子に座ったオジイたちの動きが右に左に。それも必死に我慢していると見えて、時々はシャンとしますが、やはり前に横に。締め切った会場の息苦しさに少し戸を開けると、外からは観光客の明るい笑い声と、乾燥した健康な海風が…。こんないい海日和に島の海人(うみんちゅ)を公民館に閉じ込めて、しかも車座でなく椅子に長時間座らせて、酒もなしで、これは拷問ではないか。
 それに島は過疎の悩み、高齢化の心配、無医村の不安、海上交通の不便、毎年台風の被害、畑の塩害、島に収益の道がない…悩み、不安、心配を、酒と唄と踊りで吹き飛ばして生活しているのに、作り物の家族問題を持ち込んで、いったい何をしているのだろう、と反省して、第2部の上映を取りやめて、自由に草場で寝そべっていただきました。
 鳩間島はこのとてつもないバランス感覚と、自然に添って生きる健全さで、どんな問題も島酒で乗り越えてきたのだと思います。
 島とは長い付き合いなのに、これほど、文化の地域性を感じたのは初めてでした。

■2007年01月20日(土)   そろそろいいかしら 12        編集長 朱
○ 東京上映!

 縁は異なものといいますが、映画のスチール係の写真家、澤しゅう三さんの写真教室の方が、いま東京の施設にいらして、「映画を作っていらっしゃるそうですね、ぜひ東京で、西大和地方の映画を上映してみませんか。展示ホールも上映用の研修室もお貸しします」とのお誘いがありました。
 東京?しかも県の施設で上映…。
 4月5日から10日まで、1日2回、6日間も!
 こんな美味しい話はない、と思ったのですが、当然、上映委員会は大反対。
 その当時は、制作費の残りでチラシやポスターを作る予定でしたので、「お金は出せないが、東京までの交通費や宿泊費が本人の自腹なら、応援しよう」と、一応は好意的な返事をいただきました。
 すでに5月2日の沖縄県・鳩間島音楽祭でチャリティー上映をする予定でしたので、頭の中は4月・5月と「映画あかりの里、東京から沖縄まで上映!」の金文字が浮んで、願ってもないチャンスに、出費など気にもなりませんでした。

「私たちの映画に、伝説が生まれる」

 奈良の地方都市で住民が作った映画を、東京で封切り上映して、次は沖縄上映。そして大阪の劇場で2週間上映して、地元奈良には凱旋上映!と、華やかに打ち上げる上映予定に、東京の世界日報から近畿版の産経新聞まで大きく取り上げられ、地元の各紙にも次々と掲載されました。しかしこの奈良県以外のメディアに取り上げられたことが、また意外な展開になるのですが、それはまたいずれ…。
 目の前のチャンスはつかまえろ、ってことです。

 東京上映は1階ギャラリーと大ホールをすべて使って、澤さんのスチール写真のパネル展示と、安堵町からお借りした灯心引きの実物と道具が展示されて、一日中、大きな液晶テレビであかりの里の8分ダイジェストが流されていました。
 毎日、6日間、年賀状のデータで東京在住の知人を呼んで、お昼を一緒に、夜は付き合い、深夜まで語らい、久しぶりの出会いを楽しみました。
 写真展に使うパネルは40枚以上も作ってくださり、2階での映画上映の間、1階ギャラリーとイベントホールの2部屋も使った、「澤しゅう三・あかりの里写真展」を、大々的に開くことが出来ました。
 東京で作ったパネルは、その後各地の上映会場で展示して、各メディアの目に止まって、写真提供者名とともに掲載して頂いています。
 私もこのご縁が、交流会から生まれた「夢殿サロン」につながって、毎月、半年間も東京に通うことになりますが、それもまた、思い切って東京に進出したから、得たチャンスでした。 

■2007年01月19日(金)  そろそろいいかしら 11         編集長 朱
○ オーナーズとは
 ここに出てくる「オーナーズ」とは、監督と私を含めた13名の出資者のことです。「そろそろいいかしら」のタイトルは、そのオーナーズにはばかったもの。映画制作の出資者を募るときは、交流会の参加者で、気心の知れた、遊び心の分る方を選びましたので、交友関係は代表を中心とした放射状でした。オーナーズ同士、横つながりの人間関係はありません。
 これが、指示系統の乱れの元になりました。
 オーナーズの本業は経営者か代表者なので、毎度の集会には出席できずに「すべて長田に一任した」と、出席できる方だけで集まりましたが、結果的に「私のやり方」を許す、私の理解者や支持者の少ない状態で、会議は進行して行くことになったのです。
 組織はシンプルが一番と、事務局は会計を中心に数人置いて、残り全員は広報として宣伝広告に勤めます、で了承を得ました。
 ところが放射状態の人間関係なので、事務局に行くべき質問や、書類の問合せも。また事務局まで、あれは済んだか、これはまだか。現場からも、差し入れお願いします、現場が変わりましたので。と情報のすべてが、裾野から直接トップに上がってくるのです。毎夜の電話、毎朝の呼び出し、現場の差し入れ、深夜までの飲み会…。
 会の名称が変わるたびに出てくる代表席の交替も、排除するたびに溝が深まり、微妙な関係になると、最前線のプロデューサー判断に説明を求めるようになり、反対だけのために出席する方もいて、会議はいつも糾弾の場でした。
 平成18年4月の東京上映から、10月郡山城ホール上映までの半年で、まだ予定が残っているのに上映委員会を解散したのは、いつのまにか上映にかかる雑費は、監督や私が支払って、入ってくる収益はすべて上映委員会へ、という現状に、このまま上映を続けることが難しくなったからです。

 現在、会議で反対されながら、プロデューサー判断で実行した案件は、すべて成功を収めて、大きく未来に繋がっています。
 映画上映を文化活動として展開したのに対し、収益を考え始めた事務局との差でした。

■2007年01月18日(木)  そろそろいいかしら 10         編集長 朱
○ 長引く撮影に…

 撮影は05年の8月29日にクランクインして、9月12日にクランクアップする予定でした。
 新聞各社に連絡をして、撮影中の様子を新聞に掲載してもらって、テレビも呼んで、映画の完成までに、何としても先行した話題づくりが必要でした。
 なぜなら、映画の制作費の中に、宣伝費と上映費は入ってなかったからです。
 実行委員会は、うぶすなの企画だからうぶすなで書けばいいぐらいにしか、マスコミ対策を考えていません。出来上がった映画も「いかるがホールで上映すれば、それでいい」程度の考えでした。
 いくらうぶすな企画でも「あかりの里」ばかり載せるわけにはいきませんので、 他のメディアを使ってタダで、宣伝費をかけずに広告をするなら、今がチャンスです。9月に終わるはずの撮影が、撮り直しや追加撮影やらで、10月にはいってもまだ真夏のシーンを撮っていましたので、この現在撮影中の動きが派手なうちに、話題性があるうちに、完成後は公的機関で上映か、大手企業の支援で上映か、何でもいい、支援して下さるならと、様々なところに顔を出しました。
 まず県庁。前例がないのひと言で撃沈。支援する気がないのに、日参してくださいとも。後に違った形の支援が舞い込みますが、当時は沈没しました。
 各町の町長に、いま住民がこのようなことをしていますと訴えても、ぬらりくらり。ある町では、挨拶が遅いと叱られ、ある町では書類を提出してなら会うかもしれませんと、もったいをつけられ、一週間後に行っても書類が動いていないケースもありました。
 それで、公的機関にはいっさい頼らないと、決心しました。
 誰にも頭は下げないと、公言しました。
 それなのに映画で頭を下げたことのない方から「頼み方が悪いのと違うんか?」と言われ、実行委員会から上映委員会に、また名称変更したときにも代表を変わる声が上がり、一部オーナーと険悪になってきました。
 年が変わって初雪を迎えても、まだ真夏の撮影が終わらない先行きの不確かさに、「もしや…」と不安に思い、いざとなったときの責任の取り方を密かにシュミレーションしてみるなど、肩書きに目が眩んでいる内には、そんな「負」の部分が見えません。ここまでくれば成功も失敗も表裏一体です。 
 だからといって、「いいものを作りたい」と真冬の冷気に震えながら頑張る現場を見ると、待つ時間も含めて、すべてを呑むしかありません。
 
 薄氷を踏むような日々に、マスコミ用の8分ダイジェストが先にできたので、せっせとマスコミに送り続けて、奈良テレビのニュース特番や、NHK奈良放送などにも出演して、雑誌取材も受けて、次第に「あかりの里」の知名度が上がり始めました。
 そのおかげです。公民館やホールの交渉が非常にスムースになったのは。
 いかるが町長と大和郡山市長は、「ならんとを見たよ、がんばってるね」と、上映にとても協力的で、人の親切に飢えていた身に、嬉しさが染み入りました。
 そのときです、東京上映に至る道が開いたのは。

■2007年01月17日(水)   そろそろいいかしら 9         編集長 朱
○ 撮影だっ!

 撮影資金が足りないので、大掛かりも小掛かりにも、セットは組めません。
 大道具小道具、時計も水場も、すべて現役の本物です。スタジオなしのオールロケなので、オーナーさんの事務所や仕事場や、撮影協力者さんのご家庭に撮影隊が押し入って、現実に生活している中に虚構空間を作って、そこで役者さんたちが演技をしました。
 試写で見ると、このすべて本物の中で撮影したことが、映像に不思議な現実感を生んで、その存在感が、ふるさとから遠く離れた都会の鑑賞者を、物語に引きずり込んでしまったのです。
 何度でも言います。東京のお客さんはボロ泣きでした。
 泣くはずのないシーンで、鼻水をすすり上げていました。 
 これが監督の意図したものなら、横田丈実は天才です。
 天才は少し言いすぎで、俊才でしょう。私のお気に入りのシーンを削ろうとしたからです。あまり、映像を絞れ絞れと言ったものだから、ついにストーリーに関係ないところに手をかけたのですが、物語の最大の奥行きを失うところでした。
 どこかで「あかりの里」を見る機会がありましたら、物語だけでなく背景や小道具や、脇役も見てください。日本の地方都市の普通の暮らしに、不思議なほどの美しさがあります。
 撮影前の監督の注文は難しくて、「家賃3万くらいの安アパートの1階で、家具がそろって、人の住んでいないところ」とか。「夫を亡くして、母娘2人で生活している貧しい農家で、広くて天井の高いところ」とか。貧しい農家なら我が家がぴったりと、監督を家の中に案内すると、破れ天井を見上げて、「これは作ったような貧乏ですねぇ」。「…あのぅ、そこで暮らしているんですが…」
 家を撮影に提供するということは、自分の家であって自分の家でなくなることでした。いざ撮影が始まると、物語に合うように家具を動かして、決まると、小物一つも動かせません。撮影は何日も続いていつ終わるか、監督でさえわからない状態で、ムクツケキ大男と照明機械が大挙して押し入って、座敷も土間も裸足で歩き回り、カサ高い男の人が、大きな器材を持ってあっち行ったりこっち行ったり。
 それなのに「よぉいスタート!」で物音一つ立てられずに、襖の開け閉めもままならず、当然、テレビもダメ、トイレで水を流すのもダメ。しかも大量の電気を使うので、コタツもダメ。同居中のおじいさんおばあさんを部屋に閉じ込めたら、数時間閉じ込められっぱなし。
 日頃は一日中テレビを見ておしゃべりをしている年寄りが、何時間も、何日も、よく辛抱してくれたと思います。よほど撮影が珍しかったのでしょうが、もう映画の撮影はコリゴリだと感想を洩らしました。

■2007年01月16日(火)  そろそろいいかしら 8          編集長 朱
○ いよいよクランクイン

 プロデューサーの仕事は、撮影に至るまでの全体像を、幾度となく監督と練り、現場が動きやすいようにロケ地の手配や交渉を済ませて、撮影のための許可願いや申請書類をあちらこちらに送って、マスコミに連絡して、テレビなどの撮影班が来てくれるかどうか確認して、エキストラを手配し、現場から上がってくる様々な要請に応えるという、細かいようで、実はけっこう大雑把な仕事でした。
 大変なのが、私と監督の間に立った現場のブロデューサーです。
 実に細かい気配りと、手配と、現場の支払いチェックや、素人集団のオーナーズとの軋轢の処理まで、彼が1人で仕切って右に左に動き回っていましたので、真夏の撮影が続くとげっそりと憔悴しきって、フラフラしていました。
 いえ、炎天下で撮影が続くのに、若いスタッフたちすべてが、作品作りに一丸となって、張り切っていましたが、中高年のオーナーから見ると、そんな若者の業界風のいでたちにびっくりしたようです。金髪くらいは見慣れていても、スキンヘッドや無精ひげの怪しげな人物や、夜でもサングラスの若者に、世代の違いをかぎとって警戒していましたが、金髪の女性が腰に作業道具を下げてなりふりかまわずに働く姿や、反射板を黙って何時間も持ち続ける若者に、次第に好感を抱いてくださったようです。
 見る映画から、参加する映画に、がキャッチでしたので、オーナーズも自分の仕事場を撮影に提供したり、病院を丸ごと使わせていただいたり、突然呼び出されて、私と夫婦役を演じたり、遺影の出演や、セリフをもらって本格的に映画デビューしてみたり、みなさんそれぞれに映画作りを楽しんでくださいました。
 8月29日のクランクインは、信貴山周辺を重点的に撮りますので、長時間のお見合いシーンを無料で使わせていただく十三屋さんで、この2週間の撮影が無事に済みますように、撮影の間、女性を中心にお食事会を開きました。
 撮影が2週間と計画して、費用もそのように予算を組みましたので、すんなりと2週間の撮影がすめば、映画は出来上がるものと、頭から信じ込んでいました。
 映画制作上で2度めの心痛の始まりです。
 

■2007年01月15日(月)  そろそろいいかしら 7          編集長 朱
○ カタカナ肩書き
 
 一番初めに、誰が代表になるかと話し合ったときに、男性陣を抑えて「代表は私です。他のどなたがなっても、お商売が邪魔をしますから」と言い切って、「みんなで映画をつくる会」を立ち上げたのですが、シナリオが完成すると、監督から会の名称を変えて欲しいとの要請がありました。
 せっかく墨跡も黒々と、えらいお坊さんに看板を書いていただいたけど、この映画は、自主映画を作り続けていた横田監督を推して、大きな山を乗り越えたのです。
 監督は「あかりの里製作委員会」にしようと申し出て、全員一致で賛成しました。
 あとはシナリオの始めに書くのは役者さんの役どころと、制作スタッフの方々で、さてここで、「つくる会なら代表でいいが、もう映画を作るのだから、正式名称を」と、なりました。
 始めに私はプロデューサーと聞いていましたので、「長田さんは製作総指揮でお願いします」と言われて「プロデューサーじゃないの?」、「製作総指揮はプロデューサーより上で、現場は私がしますわ」。「まあ、製作総指揮の漢字のほうが解りやすいし、カタカナよりは怪しくないわね」と納得してしまいました。
 製作総指揮の方が、らしく聞えたのです。
 ところが帰宅したとたんに電話です。
「なぜプロデューサーを下りたのか、製作総指揮などスピルバーグクラスの映画なら当然だが、我々の映画に製作総指揮など恥ずかしい。あまりに簡単にトップが入れ替わったが、事前に申し合わせがあったのか。自分たちはうぶすなの召集で集まったが、彼がトップでは話が違う」と、まぁ短く言えばこのような内容です。
 が、仰天したのはこちらの方。
 トップを入れ替わったつもりはサラサラなく、さっそく電話で、恥ずかしい役職を下りて、怪しげなカタカナ肩書きで落ち着きました。
 一度ならずも二度までも、同じトラブルは続くものです。
 ついでに「ドラマで見るプロデューサーって、監督に叱られる立場みたいだけど、何かおかしくない?」と聞くと、「プロデューサーには様々あって、何々プロデューサーと頭に色々つくのは現場のスタッフです。一番シンプルで何もつかないのが、映画製作の総責任者で、その場合、監督もスタッフの一員です。全体の構想から、監督選び、資金調達まで、普通は1人ではしません。映画製作は総合芸術ですからね。この映画の全貌が分っている人が責任を負うべきです。映画は出来上がるまで気を抜けませんよ」とも脅されました。
 
 ついでだけど、中年の素人集団が映画を作ろうと思った時、若い現場の技術集団にこちらの思いを伝える、通訳のような存在が必要でした。見物の無神経と現場の神経質の間に立って、緩衝材になってくれたのが、カレでした。
 映画は総合芸術です。素人もプロもすべて呑み込んで、撮影に突き進みます。
 
 

■2007年01月14日(日)   そろそろいいかしら 6         編集長 朱
○ うぶすな式マスコミ対応

 映画を作ろうと思ったときに、すでにメディア操作は始まっています。
 うぶすなも西和地域を中心とした広報力があり、奈良盆地一体に広がるラジオ番組も持っていますが、せっかくの映画作りです。うぶすなだけの広報力では役者不足なので、12月の発足式から新聞各社に連絡を取りました。地元の奈良テレビには重点的に情報を流して、発足式からクランクイン、撮影の途中や上映会前日など、何度もテレビの撮影班にご出動願って、現場をカメラに納めていただきました。またNHK奈良放送にも生出演したりで、次第に人前で語ったりカメラにも慣れてきました。といっても、ずっとラジオの生放送の現場にいたのですが、やはりカメラは緊張します。
 新聞記事もたくさん掲載させていただき、映画「あかりの里」の知名度を上げるのにとても効果がありました。新聞社が同じ記事ネタを何度も掲載するのは、よほどの事件でなければ難しいのですが、市民活動としての映画作り、熟年層の文化活動と、このテーマを前面に打ち出すと映画の興行宣伝より話題性があり、非常に書きやすい記事になります。
 だからといって、ただ呼んだくらいでは記者は動きませんし、書きもしません。
 ここに「うぶすな式メディア操作」が必要なのです。

 地域の文化人の交流会は、個展や発表会を計画している方ばかりでなく、新聞各社の記者さん方もお呼びしています。交流会には企画のタマゴを持ち込む方も多いので、企画のあるなしを確かめて、記者を直接、引き合わせていました。特に新聞や雑誌記者の方は前に出ていただいて、みなさん全員にご紹介するなど、特別待遇をしていました。
 つまり、すでに記者との関係は友好的で、協力体制が出来上がっていたのです。そこに、交流会の主宰者が映画の制作発表をしたのですから、土壌もバックも熟知していて、記事に起こしやすいはずです。
 しかし、いくら書きやすくても、一度書いた記事は2度とは書きません。だから少しづつ新しく展開を進めて、継ぎ足して公表しました。また、A社に流したものと、B社のコメントは内容を変えて、先に他紙が扱ったネタで、取材が後になっても編集長が採用しやすくしました。これが記者ではなく編集長としての視点なのです。
 だから、どこの新聞も書きつくした後、話題性として、和菓子「あかりの里」を発表したのです。もう、あの手この手です。
 おかげさまで映画の知名度は上がって、入場者は2000人を越えて、遠く曽爾村まで上映することができました。
 ところが、身内のオーナーからこのマスコミ対応に不満が出始めたのです。
 「いっぱい出れてよかったじゃないか」です。
 …あの…私もメディアなんですけど…

■2007年01月13日(土)  そろそろいいかしら 5        編集長 朱
○ シナリオ作りに半年

 シナリオハンティング、つまりシナリオを作り上げる前の現地取材ですが、映像に入れて欲しい現地に監督を案内して、ここはぜひ入れて欲しい、ここも大事ですからと、つい盛りだくさんの注文に、監督の返事は、はぁ…。と気の入らない様子。なかなかこちらのイメージが伝わりません。
 ついには「監督ぅっ、飲みましょうよ」と、深夜まで飲んだり、押したり、引いたり。
 ようやくできたシノプシス(あらすじ)も納得がいきません。こちらの注文の多さに収拾がつかなくなって、やり直しにつぐ、やり直しで、次第に監督の口数が少なくなり、ひと月、ふた月と時が流れるだけで、脚本どころか物語の全貌さえ見えてきません。
 もういい、私が書く!!  
 そう、自分で書きたかった…。
 過去数冊も出版して、現在も活字に携わり、作家「栗本薫」先生の公認の弟子ですもの。物書きの端くれなら、ああだこうだと他人の筆を使わずに、自分で書きたいのは当然です。しかし、駄目なのです。私が書いて私が作った映画など、何の価値がありますか。地元の監督と、みんなで作る映画だからこそ、大義があり、名分が立つのです。

 ついに半年かかりました。半年かかって、「うん、これで行こう! 後はみんなで、この台本を叩いて叩いて叩き直そう」と。
 私も辛かったけど、監督も辛かったと思います。誰も知らないけれど、映画制作上で一番苦しい時期でした。
 ものを作ると決めた以上、必ず、完成まで紆余曲折があります。これは完成までの試練であって、挫折には至らないものだと分るのは、年の功です。本職が僧侶の監督は、正面切って言い争いをしません。討論さえ避けて次第に疎遠になり、こちらも冷却期間を置くと、ラジオの生放送の現場に、映画に携わった経験者が現れて、監督とも年が近いので渡りに舟とばかりに、彼を引き入れ、私との間に立ってもらいました。
 この映画制作で、もっとも適材適所の人材でした。
 彼が入って、独走しがちだった脚本が、見る間に締まったものに変わりました。

 今では、あのとき書かなくて良かった…とつくづく胸をなでおろしています。
 私では、あんなに心優しい物語は作れません。この作品は横田丈実の、力量がありながら地元から発信しなければならないせつなさと、等身大の生活者の視点が、この映画に深い奥行きを与えています。登場人物たちのキャラクターも良くて、身びいきかもしれませんが、なかなかのデキだと誇っています。
 平成16年12月の交流会で「みんなで映画をつくる会」の発足式をメディアに流しながら、脚本ができ上がったのは翌年17年6月です。
 この半年、ずっと肝を冷やし続けました。

■2007年01月12日(金)   そろそろいいかしら 4         編集長 朱 
○ テーマを何にするか

 映画を作ろう! …で、何を作ろう?
 幾度となく企画会議をしても、参加者が増えれば、脱線につぐ脱線でなかなか進行しません。
 王寺町の中央公民館の古ぼけたソファーに座って、「ようやく今日は2歩進んだと思ったのに、帰り際に2歩も下がって、また元の木阿弥に…」と愚痴をこぼすと「止めるんやったら、今やで」と言われ、これはいけない、会議は進まなければ停滞どころか、企画そのものが危なくなると、早速、監督と映画の勉強会を始めました。
 公民館にビデオを持ち込み、ドキュメンタリーと記録の違い、監督による作風の違い、カメラワークの目のつけ所など、作る側に立てば、映画の見方まで違ってきます。
 ビデオ鑑賞会は「本当に、みんなで映画を作るんだ」と半信半疑から覚醒したようです。当時撮影中の横田作品に、エキストラでみなさん出演して、撮影現場の緊張感と役者気分も味わって、次第に企画会議も円滑に進むようになると、「ではやめたら?」など後ろ向きの忠告が収まりました。
 やると決めたら、倦まず、弛(たゆ)まず、歩むのみです。不動の目的があるのだから、後はそこにたどり着く道順だけです。
 「みんなで」という船頭の多い企画の難しさを、その後も何度か感じました。
 平成16年10月の交流会で「みんなで映画をつくる会」の発足をお知らせして、「法隆寺や中宮寺のような、黙っていても国が記録してくれるところは映画に入れません。私たち庶民の文化遺産を、住民の手で残すのですから、各町の、ここを映像で残したいという場所を教えてください」
 と訴えると、安堵町の観光ボランティアの方が「うちには灯心引きがあるけど、みんな高齢で、今残さないと伝統産業がこのまま消えてしまう」と力説すれば、王寺町のちんどんグループから「この公民館も駅前開発で道路になるの知ってたぁ?」。えーもったいない趣のある古い民家なのに。フリーの記者さんは「斑鳩の法隆寺の駐車場のあたりは昔、イの町と言ってい草の町でしたよ」。あら安堵町とつながりがあるわね。三郷町の写真家さんは「信貴山の門前町もいまは寂れてしもうて…」。私の平群町は「平地で開発が進んでも、反対に平群の山奥はハイキング客しか来ません。生活の場なのに忘れ去られています」。とまずはご意見拝聴。後は監督と2人で現場の下見です。
 これをシナリオハンティング、シナハンと言って、舞台となる場所に出かけて、シナリオを書くための下調べやイメージづくりをします。
 いよいよ、シナリオですが…。

■2007年01月11日(木)   そろそろいいかしら 3         編集長 朱
  ○ 制作資金をどうするか

 映画をつくるのにいくらほどかかるの?
 ピンからキリです。そりゃそうでしょう。
 自主映画は、上映する配給先がないので制作資金が回収できません。作っても売れない、初めから損をすると分っている映画に、お金を出す人はいません。
 本当にそうでしょうか?
 損する映画で、誰も儲からないなら、初めから「儲けない映画」を作ればいい。それこそが「錦の御旗」になるではないの。
 制作資金の3分の1を「うぶすな」が出しましょう。残りは協賛金を募ります。といっても監督にはホラ話に聞えたようです。でも、うぶすなの取材で多くの地域文化にたずさわる方たちを知って、市民活動としての映画制作が、孫や子に残せる私たちの文化遺産が、素人が自己資金で地域おこしするこの「錦旗(きんき)」が、巷の伏龍たちに支持されないはずがないと、確信がありました。
 協賛金1人20万。
 お金が無理なら場所を提供して欲しい。スタッフ弁当を格安で。女優さんを泊めて。むくつけきお兄ちゃんたちを集団で雑魚寝させて。風呂貸して。電気貸して。家貸して。ゼニも人も器材も場所もエキストラも、みぃんな、タダで貸して!
 借りました。いっさいがっさいタダで。
 奈良でイベントを企画して挫折する方は、みなさん同じことをおっしゃいます。大阪人はノリがいいけど、奈良の人は遠見でノッて来ない、と。
 大阪人も奈良人も一緒。人が乗らないのは企画に魅力がないからです。その人の熱意と夢を伝えられないからです。
 それに「うぶすな交流会」の面々は、みなさん打ち出の小ヅチを持っていらっしゃる。その小ヅチをご自分の名利に使おうとするから、人も資金も集まりにくいのです。私はこの打ち出の小ヅチを「錦の御旗の下」で、片っ端からブンブン振って、小銭をザクザク生み出すつもりでした。資金が不足したら、すぐ交流会の歌手や、ダンサーたちのチャリティーをして、「地域を映像で残す資金が不足しています」と、紙面でラジオで交流会で訴えるつもりでした。
 幸い、一度もチャリティを開催することなく、資金は潤沢に集まったのです。
 一週間かかりませんでした。
 一度の電話。一度のお茶で。
 長田の錬金術か。はたまた手品か。業界ではあり得ないシロウトの怖さ、とも。東京でこれをしたら超凄腕プロディーサーて言われますよ、とか。また、奈良県の田舎だからできたけど、大阪なら成功しない話ですね、とも。東京や大阪のビジネスマンに言われました。
 何とでもどうぞ。これこそが「地域の文化力」なのです。

■2007年01月10日(水)  そろそろいいかしら 2          編集長 朱
 ○ なぜ映画なのか

 横田監督との出会いは取材でした。
 読者から、舞台の脚本も演出もするお坊さん監督が地元にいます、との情報で早速お伺いすれば、学生の頃に映画賞を受賞して、9本も自主映画を完成させたという、地域のお宝のような方でした。
 お話を伺いながら、私が主宰する「うぶすな交流会」の人材で、映画ができるのではないか、と思ったのが事の始まりです。
 うぶすなの発行が、平群・三郷・王寺・斑鳩・安堵・上牧・河合と広域7町に及ぶために取材対象も広がって、記事で紹介して、ラジオのトーク番組にも出演いただくと、だいたいそのお人柄が分ります。それで文化のお見合いとばかりに、隔月で交流会を開催して、文化の相互支援の場を作っていました。
 ところが、当節の時流に乗ったような町の合併問題で、日頃は気にもしなかった住民意識が高まって、私たちの文化交流の場に、政治の話が入り込んだのです。そして、互いに住んでいる地所を問い詰めはじめました。
 文化は、地域や政治を越えられます。
 隔月で集まる各町の文化人たち、約50人。この交流会には、映像作家から小説家、写真家、演劇人、演奏家、歌手、役者、金持ち、小銭持ち、まで様々な文化の発信者がそろっています。言わば人材の宝庫です。
 よし、この文化力を一つにして「みんなで映画をつくろう」。

 平成16年8月の交流会で横田さんを紹介して、翌月9月に一面で扱いました。
 映画監督に出会った、ただそれだけの理由で、その後2年に及ぶ映画の制作期間と、いつ終わるとも知れない上映行脚が続くことになろうとは…。

■2007年01月09日(火)  そろそろいいかしら 1          編集長 朱
 ○ 男女共同参画というけれど

 映画制作などと無謀な企画に手を染める、はるか昔のこと。
 かつて私は、少女と母親たちで構成する、世界規模の文化団体に所属していました。
 少女たちの健全育成のために役員となった母たちは、スキーやキャンプの企画、たくさんのナベや釜の手配、力仕事、現地での昼夜交替の見張りも、夜回りさえも、すべて女性だけの手で行なっていました。その緊張感のせいか、毎夜の反省会は厳しいものでした。
 いつしか委員会はミスを指摘する場になって、同じ現場を支えた者同士でさえ、互いに失点を探しては批判しあうようになりました。
 これを私は、女性だけの組織だから、歯止めが効かなくなっているのだと思っていました。
 横田監督と出会い、映画を見る側でなく作る側になりたくて、「みんなで映画をつくる会」を立ち上げたときに、この轍(てつ)だけは踏むまいと、実行委員会は職種も年齢も性別も、すべて異なった方々にお願いしました。
 会計だけは一番不信を生む場所ですので、代表である私は距離を置いて、通帳を持つ方、お金を出す方、出金の許可を出す方、としつこいくらいに気を使いました。
 後は「組織はシンプルが一番」を信条に、方向性を持つ代表が1人、全員はその決裁権を持つ一票としました。
 しかし、つくる会が動き出そうとする直前に、「こんなビッグイベントに女性が代表では社会的な信用がない、名前だけでも男にしたらどうだろう」と待ったが出たのです。
 「うぶすな」は元気な女性を支援するタウン誌です。
 コラム「透彫」でも常々、「女性が主に活動する会の代表が、なぜ男性なのか」とか「地域活動に、会社組織の縦割り役職は無用ではないか」や「誰かの背に隠れて世間を見るのではなく、顔をさらしてみませんか、世界が変わりますよ」と女性たちに啓蒙しておきながら、当の本人が、男の背中に隠れて仕事する、のですか?
 思わず、語気やさしく、顔はいかつく、「代表は私です。他の誰が代表になっても、支援者は納得しないし、会が分裂します。それにもし、制作資金が不足したときや、最悪、映画が途中で挫折したとき、あなたに責任が取れますか?」と一蹴しました。
 資金集めも失敗も、すべての責任を負う覚悟があったからこそ、みんなに「映画で遊びませんか」と、声をかけたのです。
 男女共同参画と言いますが、女性が代表となって企画を推進する場合、野心のある男性は補佐に不向きのようです。後々ですが、トップの指令が複数になって、全体像の見える代表の意向が、現場に届かなくなったのです。

■2007年01月08日(月)   ビジネスと非営利            編集長 朱
 ビジネスマンと同席したときのこと。
 彼いわく、「赤字経営は企業人として恥です。持ち出し経営などただの自己満足で、主婦や中高年のボランティア活動は遊びにすぎず、うぶすなの文化活動も成果も、生活をしなければならない独身女性や、家族を支える男性から見ると『貧しくてもいいのダイヤが欲しい』と言うような、自分勝手な話に見えます」と。
 言い得て妙だと思いましたが、随分、貧弱な人生観だなとも感じました。
 心にゆとりがないのです。
 生活のために金がいるのではなく、金のためにもっと金が欲しい、その迷宮に陥ったいらつきなのに、本人はお気づきではありません。
 今の暮らしぶりでは、どこのどなたでも、切り詰めれば余剰金が出ます。そんな資金だからこそ、非営利で「頑張る女性を応援するタウン誌を出そう」と思い至ったのです。
 ついでに発行の勢いを借りて、「みんなで映画をつくろう」とか「雅楽フェスティバルやろうよ」などと飛躍しましたが。
 …ええ、金などなくても、武士は高楊枝ですもの。
 でもね、必ず近くに、同じ考えの方がいらっしゃいますよ。
 消費するだけでは物足りない、何かを創造したい同志が。
 そのために、「持ち出し」で発行するタウン誌うぶすな。
 紙面で、ラジオで、交流会で、何度も大きく訴えれば、多くの賛同者が集まり、不足の資金も人材も場所も、メディアさえ動いて、結果、未来に大きく広がった成果が残ったのです。
 初めからダイアを狙った訳ではありません。
 労働者階級にすぎない中産階級から、自然に「文化」が発生するのは時代だと思います。衣食住の足りた世代が、生活のゆとりを海外旅行や株式投資ではなく、自分の生活圏の活性に自己資金をつぎ込もう、などと考えるのは、庶民に底力がついた証拠です。
 行政にも大手企業にも頼らずに自分たちだけで、地域活性のビッグイベントを興そうと思ったとき、各町の隅々に眠る伏龍たちに呼びかけるには、大きな広報力が必要です。
 そのとき、どこの支援も受けず、束縛のない、大手新聞各社の配達ルートに乗って、各家庭の隅々まで行き渡る、フリーのミニコミ紙が役に立つのです。

 生活にゆとりがあるから文化支援ができるのではありません。
 いまや、非営利はビジネスを凌駕する時代だともいえます。

■2007年01月07日(日)  ネットから、ラジオに活字に       編集長 朱
 読者のお便りに、ホームページの感想がありました。
 年賀状は紙媒体。ラジオを聞きましたの感想もハガキです。一番手軽なメールの「書き込み」でのお返事は少なくて、少し不思議な気がします。
 うぶすなの読者はとても礼儀正しくて、住所、氏名、電話番号、年齢まで書いて、文章と筆跡を明かして編集部にコメントを取ってくださるので、読者の傾向がとてもはっきりとして、その方々に新聞折込という形で、直接、こちらの心を届けることが出来ますので、狂いがありません。だから「うぶすな」はフリーペーパーには珍しく熱心な愛読者に支えられているのです。
 だからでしょうか。
 ラジオ放送の、音声の感想もハガキか電話です。
 ネットの感想までハガキに書いて、掲載依頼も後に文書で届きます。
 私はネット初心者で、キーを打つのもカカシ打法。保存した書類を捜すのも、電車の乗換えを調べるのも管理人さん頼りという機械オンチですが、ネット世界に不思議な奥行きを感じていますので、「うぶすな」においでいただいている、あなた。お声をくださいな。
 うぶすなの現物を見たいからタダで送れ、でもいいし、こんなおもしろいことがあるから載せてみませんか、でも、ラジオで声の独演会したいでもかまいません。
 せっかくのご縁ですもの、メールでご希望をお寄せ下さい。
 ネットから音声に、活字に、デビューしてみませんか。

■2007年01月06日(土)   発行日2日はデスクワークの日    編集長 朱
 昨日5日の発行から、本日6日はデスクワークにしています。
 この両日は読者からの感想や問合せ、あわよくば広告の依頼や取材の申し込みなど、1般の読者とうぶすな編集部をつなぐ大切な日です。
 また7日以降は読者からハガキが届く頃です。
 ほとんどが読者プレゼントの申込ですが、前回当選された方のお礼状や、純粋にうぶすなファンの方から感想を頂くこともあります。まずハガキの来ない日はなくて、平常月は多くて60枚ほどあります。
 1月は100枚を越える読者の声が集まりますが、お正月の挑戦しがいのあるクロスワードパズルで悪戦苦闘して、たぶん連休過ぎが投稿のピークだと思います。
 読者の声は、編集部の元気の源です。
 うぶすな読者の知的レベルは相当高くて、ハガキの文字も達筆なら文章もメリハリのある、完成した短文を送ってこられます。それで4面の読者の声欄「こだま」が充実して、こだまに載った方へのこだまの反応も早くて、読者の交流も活発です。
 この声の中からピックアップして次号の掲載をお願いしたり、ラジオ出演をお誘いすることもあります。
 みなさんの広報の母体になれば、と起こしたミニコミ紙ですので、活字媒体や電波もお気軽にご利用下さい。
 うぶすなは非営利ですが、掲載にはわずかな基準がありますので、電話やメールでお確かめ下さい。ほとんどは無事掲載ですよ。

■2007年01月05日(金)   うぶすな発行日です          編集長 朱
 今日は、朝から電話がじゃんじゃん。
「新聞見ました。中川先生の俳句のファンです。がんばってくださいって伝えてください」。「一面の版画は編集長の作品ですか。忙しいでしょうにすごいですね、えらいですね」。「パズルの答えが解りましたよ。切り絵が好きなんです、今日ハガキを出しますから、読者プレゼントの切り絵カレンダーをお願いします」。「あけましておめでとうございます。私の歌が掲載されていました。ありがとうございました。今年もどうぞよろしくお願いします」。「いつも愛読しております。本日貴紙を拝見させていただきました。私は○○のグループにいますが、来月に個展を開く予定でいますが……」。「一月のイベントコーナーで見ましたが、宝蔵院流の『狸汁会』の記事についてですね、私見を申し上げますと…」。「高田長老の夢殿サロンに参加したいと思うのですが、予約制でしょうか」。「女性の自立と文化支援をテーマに、うちの大学で講演をお願いしたいのですが」。
 メールでも。
「あけおめおはよー。うだうだうだうだうだだぁ〜」
「メールで失礼致します。新年おめでとうございます。iセンターでうぶすなを見ました。がんばっている女性を見るとうれしいです」
 ネットでも。
「貴紙をセンターで拝見しました。つきましては二月の初めにイベントを予定していますが、貴紙は5日発行でしたのでもう間に合いませんが、お知り合いの方に配信願えばと思いまして」
「私たちの会報誌が余っていますが、そちらに送ってもよろしいでしょうか」

 毎月5日はお祭り騒ぎです。
 電話と携帯とパソコンはフル活動で、朝食中も昼食中も、こちらの口の事情はお構い無しで呼び出されます。ま、この状態は明日も続きますけど。
 本当にうぶすなにご用のある方は、発行日は避けた方が賢明です。

■2007年01月04日(木)   ダウンしました             編集長 朱
 お年始に行って飲んで、飲んで、後片付けをして、喫茶店でオーダーストップまで語って、家にたどり着いて、そのままダウン。
 口に優しい銘酒ばかりを味くらべする贅沢と、奥様の手料理の美味しさと、同席された方々の珍しいお話が楽しくて、例年通りハメを外してタクシー派、電車派、テクシー(徒歩)派は、後顧の憂いなく盛り上がりました。
 気になるのは病気の話がチラホラ入ることで、お互いに同病相哀れんで語っても語りつくせないので、できたら酒席では控えたいもの。女性相手に微妙な下ネタっぽい話も、笑顔で相槌が打ちにくいのでやめて欲しいな。1人演説も相手に聞き役を強制しているので要注意です。ではどんな話が酒席でふさわしいか、となると当然、楽しい話や珍しい話、特殊な仕事の業界話もおもしろく伺えました。
 酒席は自分が飲んで楽しむ場所ではなく、同席者も同じく飲んで楽しむ場所なので、相手方が自分と飲んで楽しんでいらっしゃるかどうかの気配りも必要です。この頃は酒席でも飲めない方が多くなりましたので、飲んでいる己(おのれ)の姿が見えていないと、後で深い自己反省の奈落に落ちてしまいます。
 翌朝、爽快な目覚めのためには旨い酒を飲みましょう。

■2007年01月03日(水)   新春のご挨拶              編集長 朱
 3元日の3日目は、家族そろってテレビの観賞日です。
 コタツでだらだらと時間を過ごして、つかの間の安息日を十分に堪能しながら、初春の鋭気を養っています。そして明日からは、この一年の第一歩を印す、新年のお年始回りが始まります。
 「旧年中はありがとうございました。今年もどうぞよろしくお願いいたします」
 口にすれば、使い古されて陳腐な口上だけど、このひと言に万感の思いを込めて、一人一人にご挨拶いたします。
 一年をぐるりと巡る「暦」のありがたさ。
 昨年中に何があっても、その年を過ぎれば新たな年になり、もう一度、巡り来る季節に再生できます。新たな年のスタート日に、交友関係さえ一度初心に帰って、古き良き友に感謝の気持ちを伝えたい。
 つい親しさに甘えて「親しき仲にも礼儀あり」の一線を越えて、友の心の地雷を踏まぬように。
 お世話になった方ならなおのこと、また今年もお世話になるであろうことへの、感謝とお礼を込めて、新年のご挨拶を致します。そしてタウン誌「うぶすな」を通じて四万読者の方々、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 それよりなにより、いまこのページをご覧のあなたさま。本当にこの奇しきご縁に感謝しつつ、心よりお礼申し上げます。
 うぶすなにとって、この新たなつながりこそ新年の「宝(たから)」であると信じます。

■2007年01月02日(火)   年賀状                  編集長 朱
 朝、泊りがけの客人がお帰りになると、急に静かなお正月になりました。
 コタツでミカンを食べながら年賀状を読むという、絵に画いたようなお正月を迎えながら、年賀状の差出人を確かめています。
 宛名から本文まですべて印刷なら、出す意味があるのかしらと思います。せめて添え書きくらい欲しいところ。
 近況報告とか今年に向っての抱負など。それを頼りにあなたを忘れることはありません。いまはもう年賀状の挨拶だけになっても、年に一度のおつながりを、あなたが絶たなければいつかきっとお会いできる、ご縁になります。
 昨年、映画を東京で上映するときに、年賀状だけのお付き合いになっていた東京の古い友人たちに、会いたいと声をかけると、多くの友人が会場に駆けつけてくださいました。ホテル泊まりでしたので、お部屋にビールを持ち込んで、若かりし頃の思い出話しで時を忘れて、友らの終電まで語り明かしました。上映は5泊6日でしたが、連日、古い友らと飲み明かすことができました。
 年賀状の添え書きの中に、移り変わる友の人生が見えていましたので、何十年たっても時の隔ては感じられません。これも年賀状のおかげです。
 あなたからの便りを、一枚、一枚、大切に拝見させていただいています。

■2007年01月01日(月)   謹賀新年                 編集長 朱
 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。
 
 昨日から仕込んだ手料理と、豪華なおせち料理を前にまず、年始のご挨拶です。お正月のお客様と一緒にお屠蘇(とそ)を順繰りに頂いて、それからお雑煮。ヤマトのお雑煮は丸餅です。具は円くこの一年をすごせるよう、細い大根や金時人参を輪切りにして、里芋も丸のまま。豆腐は白壁の蔵が建つように四角く切って、コンニャクも同じ理由で四角です。しかもきな粉を添えます。
 元旦のお客様の中には、お碗の中の餅だけでなく、具の全部にきな粉をまぶす方がいらっしゃいました。昔、砂糖が貴重だったころの名残だとか。
 また、いまだに出身地の県歌を歌える方がいらしてびっくり。子どもの頃から事あるごとに歌わされていたから身についたそうですが、県民体操まで出来る方もいました。
 こうして友が集まり、酒を酌み交わせば、知友の間柄なのに驚くような発見があって、いつも新鮮な会話を楽しむことができます。
 お正月早々、良好な滑り出しです。
 みなさまは、どのようなお正月を迎えていらっしゃいますか。
 今年一年、みなさまにとって良い年でありますように。

過去ログ 2006年11月 12月 
2007年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2008年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2009年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2010年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2011年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 
2012年01月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 
2013年01月 02月 03月 04月 05月 07月 09月 10月 
2014年01月 03月 
日々雑感
日々雑感
 ├雑感
 └過去の雑感

top07-1.jpg(5474 byte)



NPO法人うぶすな企画
├メール
├サイトマップ
├リンク
└日々雑感
ご利用案内
├紙面紹介
├中世史周知活動
├メディアリテラシー
└その他の企画
団体紹介
├うぶすな企画の理念
├沿革
├受賞・助成歴
└団体概要
 
 
事業内容
文化支援活動
 ├タウン紙うぶすな
 ├メディアリテラシー
 └交流会
文化企画活動
 ├「大和の風」プロジェクト
 ├映画「あかりの里」
 └夢殿サロン  
活動の記録
├メディアから見たうぶすな
├講演活動
├ラジオ番組「はい、
  うぶすな編集部です」
├月夜のねこ
└斑鳩国際雅楽フェスティバル
サポーター募集
├友の会
├ご寄付
└ボランティア
Copyright (C) 2012 UbusunaKikaku All Rights Reserved.